別離
10-6 暗転、証明
息をひそめて、ただ待っていた。
毎日を過ごしていた自分の部屋で、俺はまるで不法侵入者のように物音が立たないようにじっと膝を抱えていた。
もう数十分になるだろうか。
いい加減まんじりともせず待っていることに疲れてきたころ、隣の部屋からずっと聞こえていた物音が大きくなる。
ガチャガチャと鍵を開け、扉を開ける音。安普請のアパートでは玄関の蝶番が虫の鳴くように甲高く軋む音すらはっきりと聞こえた。バタン、と扉が閉められる振動とともに、俺は立ち上がる。
十二月二十四日。クリスマスイヴ。
デートに出かけて行った俺とシビュラを追って出かけた彼女を尾行するのが俺の役割だった。
「結局、こういうのは現場を抑えるのが一番手っ取り早いのさ。言い逃れも難しいしこちらとしても小細工を弄さずに済む」
昼間の作戦会議の際、了一はそう言った。
それにしても、と俺は前置きして、勝手にベッドに腰かけている白衣の友人を見る。
「なんかお前が俺の部屋に来るのも随分久しぶりな気がするな」
「そうかい? 本格ラーメンを作ろうと夜通し豚骨を煮たのは先週くらいだったと記憶しているよ」
そういえばそんなこともあった。
俺がこの三日間を何度も繰り返しているから、時間の感覚がずれてしまっているだけか。
二十一日と二十二日の間に俺とシビュラしか知らない時間が横たわっていて、そこであった出来事はそれがどんなに素晴らしいことだったとしても、誰にも知られることなく、記憶されることなく、消えてしまうのだ。そう思うと、自分の中にあるしこりのような罪悪感がだんだんと大きくなっていくのを感じる。
「アレ、臭いがやばくて『死体でも解体しているんじゃないの?』って大家さんに苦情が行ったんだぞ。換気扇の脂も取れないしどうしてくれるんだよ」
「でもラーメンは完成したじゃないか。原価と出来とそれから手間を考えると、やっぱり食べに行ったほうが良さそうだったけれどね」
今回の件でなんだか得体のしれない人間のような気もしていたけれど、こうした友人づきあいの中ではそういった部分はほとんど現れない。むしろフットワークが軽く、実行力が高いから、妙にノリがよく、付き合いやすいといえる。
しかし、彼が俺に求めるものを考えるとそれも複雑な気持ちだな。
「そういえばラーメンで思い出したけど、了一、夕飯食べたか? まだ食べてないなら……」
「いや、さっき服を取りに帰った時に済ませたよ。大丈夫」
今は二十三日の夜十時ごろ。
昼間考えた作戦に従って、一度家に帰った了一が家にやってきたところだった。
作戦とは、つまり、今回の事件において犯人と目されている彼女の犯行現場を抑える作戦である。
「なあ、本当にこんなのうまくいくのか?」
「首尾よくいったならそれでいい。例えなんらかのイレギュラーが起きたり、僕の推理がすべて間違っていたりして失敗したとしても、君は無限回コンティニューできるわけだからね。君が次の回に役立つ情報を手に入れられれば収穫さ」
「それはそうかもしれないけど、そう簡単に言うなよ。いい加減クリスマスムードはうんざりなんだ」
それに、俺にとってはたったの三日だけれど、シビュラにとっては途方もない時間だろう。彼女の時間感覚なんて想像のしようもないけれど、それでも彼女が今の状況を不安に思っていることは確かだ。
不老不死の神様みたいなものを心配しているなんて、我ながらおかしな話だ。
しかし、こいつはテレパシーでも持っているのか、俺の心の声を的確に読み取ってくる。
「シビュラのことを心配しているのかい?」
「なんでわかるんだよ」
「君はわかりやすいからね。見ていればわかるさ」
そんなにわかりやすい顔はしていないと思うんだが……。むしろ仏頂面だといわれることのほうが多かった。
本当にわかりやすいのはそれこそシビュラだな。不老不死だとかいうのに超越した感じがなさすぎる。
「そういえば、彼女は確か別名を八百比丘尼とか言っていたよね」
「ああ、それがどうかしたのか?」
「ということは……いや、なんでもないよ」
こんな風にいう時は絶対になにか気がついたことがあるときなのだけれど、彼は本当に必要なことかどうしようもなくどうでもいいこと以外はあまり話してくれない。問い詰めたところで無駄だろう。
「もし明日の成否を気にするなら、今のうちに衣装合わせでもしておいてくれ。君のほうが少し背が高いからね。僕が君の服を着る分には問題ないだろうけれど、君はどうかわからない」
「いや、俺がお前の服を着る必要はないだろ」
「もしも起きる出来事が変わらないのであれば、シビュラは明日死ぬ。そうなるならば、当然犯人も動くというわけさ」
着なれない服と少しサイズの違う靴を履いて外に出ると、何か大きな荷物を持った彼女が階段降りていく背中が見えた。
追いかけようと廊下に出たところで、視界の端に入った隣室の扉が気になった。
そういえば、この部屋には今、なにがあるのだろう。
引っ越しの荷物で散らかっているといってかたくなに見せようとしなかったこの部屋には、なにかがあったりするのだろうか。
じわりと好奇心がもたげたところで、ぶんぶんとそれを振り払う。
今はそんなことをしている場合じゃない。先に進んでいく彼女を視界に収めて、俺は心臓に負担をかけない程度に足を速めた。
彼女とそれを追いかける俺はいくらか歩いたのちバスに乗り、隣街までやってくる。その行先はいみじくも彼女の目的地がシビュラたちのいるショッピングモールであることを示唆していた。
バスを降りた彼女はさらにずんずんと進んでいき、ショッピングモールのほんの近くまで来たところで、方向転換する。
まさか、尾行がバレたか? と不安になったものの、彼女が向かったのはあるマンションだった。
駅からほど近く、新興のショッピングモールが立つこのあたりには富裕層向けのタワーマンションがいくつも建っており、そのうちの一つだった。
しかし、こういうマンションはオートロックだろうに、どうやって中に入るつもりだ……?
そこで、俺は彼女の前に一人の男が歩いていることに気がついた。もしかして、彼女は彼女で、最初からあの男についていっていたのか?
その疑念は男がポケットから鍵を取り出して、マンションのオートロックを開いたことで確信に変わる。
彼女は最初から、こうするつもりであの男の後ろをついていっていたのだ。悠々オートロックを抜けた彼女に気づかれないように、ギリギリのところで扉の隙間をすり抜ける。
しかし、その時にはすでに彼女はマンションのエレベーターに乗り込んでしまっていて、俺の視界からは消えていた。
俺は焦りを押さえつけて、エレベーターの階数表示を睨みつけた。
一階二階、と一つずつ切り替わっていく数字がじれったい。彼女が目的地にたどり着くまで俺も動き出せないということが無意味な焦燥感を煽った。
手遅れになる前に追いつかなければならない。彼女がことを起こす前にたどり着けなければ、事態は振り出しに戻るのだ。
そして、常に次の数字を示し続けていた階数表示がついに止まる。
橙色のデジタル数字が示した階は――R。
それを目にした瞬間に俺は走り出した。
***
それは、昨夜のこと。
「慎。そういえば言っておきたいことがあるんだ」
そろそろ寝ようか、と言った了一がいつも使っている寝袋に収まったのを確認して蛍光灯を消すと、彼は珍しく、灯りの落ちた中で話しかけてきた。
いつもは何かあったとしても「明日の朝にしよう」と言ってくるのに。
「どうしたんだよ改まって」
「いや、今回の件、随分と楽しませてもらったから、そのお礼でも言っておこうとね」
楽しませてもらった、ね。
確かに、オカルトマニアにとっては実際に起きた非日常を前にしたら楽しくて仕方がないだろう。それが他人事ならなおさらだ。
人の不幸を楽しむなんてのはまあ悪趣味もいいところだろうけれど、彼はそもそも俺の病気に興味をもって近づいてきたのだから今更何をかいわんやだろう。
「それにもう一つ、頼みたいこともあるんだ」
「頼みたいこと?」
これはもっと珍しい。
手伝い、と言うならともかく頼みたいなんて言うのは、基本オールラウンダーの彼からすればなかなかないことだ。
「明日、現場を取り押さえて、それで全部解決したならなんの問題もない。でも、失敗したり、あるいは明日以降でもシビュラさんが殺されて、もう一度ループに入ることがあったりした時の話だ」
この時の彼はいつものそれに輪をかけて回りくどい話し方をしていた。もしかしたら、話しづらかったのかもしれない。恥ずかしかったのかもしれない。なんでも飄々とやってのける彼もそんなことを感じることがあるなんて考えもしなかった。
だからか、次の彼のセリフは笑い混じりの冗談じみた口調だった。
「もしも君が次の僕に会うことがあったら、落ち着いた時でいい、この話をしてやってくれ。たぶん彼は、退屈しているだろうから――」
そして、気がつく。
よくある話だ。凡人が見る世界に比べて、果たして天才はどんな風に世界を見ているのだろう、という。
きっと彼は、見えすぎるがゆえに、つまらなかったに違いない。あの笑みもそうだ。ずっとこんなことを探して、退屈な現実への仏頂面を抑えて、彼は無為に笑っていたのだろう。
あの時、俺に話しかけてきたのも、自分を楽しませることができる友人を求めて、普通じゃない退屈しない友人を求めて、彼は俺という境遇の人間を選んだ。
なにが友人としては付き合いやすい、だ。彼が求めていたのは結局のところ友人関係で、だからこそ、それは正しい姿だった。
そんなことにも気がつかなかった自分を恥じた。
そして、恐ろしくなる。
ずっと抱えていた罪悪感。ループするたびに、あったはずの幸福をなかったことにしてしまったかもしれないという罪の意識を感じていた。俺が消してしまった幸福の責任すら俺には取れない。
しかし、それが今目の前にある。
自分の友人が、たった今友人と確信した人間が感じた最大の幸福を、俺はなかったことにしてしまうかもしれない。
それが恐ろしい。
別に俺が実際に世界をなかったことにするわけでも、タイムスリップするわけでもないけれど、自分がその渦中にいて、どうにかできるかもしれないということが妙に重く感じられた。
「――わかった。お安い御用だ」
安いわけがない。
簡単に言っていいわけがない。
もしも、自分が感じてきたことが消えてしまったとしても、それを繋いでいってほしい、なんて――
静かな声で、しかしきっと微笑みながら、彼は告げた。
「ありがとう。恩に着るよ」
――そんなの、遺言みたいなものじゃないか。
***
だから、俺は彼女を止めなくちゃいけない。
そうかっこつけて階段を駆け上ったはいいけれど、ただでさえ心臓が悪い上に長らく運動を禁じられていた俺は早々にギブアップしてエレベーターを呼び出した。
上階を目指す箱の中でぜえぜえはあはあ、と荒い息を吐きだす。結局、これが俺の限界というわけか。友人のことを思って走り出しても目的地までたどり着くこともできない。いくら爆弾を抱えていると言ったって、結局間に合わなければ同じことだというのに。
ぐぐっとGがかかるような感覚ののち、エレベーターの扉がゆっくりと開いた。
幸いにも、世界はまだ続いている。
高級マンションだけあってか屋上階は空中庭園になっているようで、エレベータールームから外へとつながるガラス張りのドアからはガーデンロードが伸びているのが窺い知れた。
もう息も整っていた俺は落ち着いて、ドアを押し開く。
ひゅうっと階下では見られなかった強い風が顔を撫でた。ガーデンロードは時期的な問題か整備の問題か、残念ながら茶色の蔓が巻き付いているのみで、とても俺を歓迎しているようには見えない。
いくらか足を進めると、急に視界が開ける。
道の終わり。
雲の間から差し込んだ柔らかな日差しに、目を細める。
もしも春にやってきていたら花が咲き乱れていたのかもしれない、灰色の空中庭園の隅に、彼女の姿はあった。
「彩芽」
俺の幼馴染のような姿をした彼女は、俺が幼馴染の名前を呼ぶと、まるで自分の名前を呼ばれたように、長い髪をたなびかせて振り向いた。
彼女は俺を視界に入れると、驚いたように大きな目を見開く。
「慎……! どうして……!?」
彼女が振り向いて、俺はその足元にあるものに気がついた。そこにあったのは、彼女が背負っていた大きなカバン、いくつかのなにかのパーツらしきもの、それから、フェンスの向こう側へと向けて設置された狙撃銃だった。
フェンスの向こうへと目を向けると、例のショッピングモールを望むことができる。
つまり、そういうことだろう。
「お前だったんだな、シビュラを殺していたのは」
「なんのこと? そもそもどうしてここに!?」
そうか、この言い方は俺がループしているからこその見方だ。彼女の感覚に合わせるのならば。
「シビュラを殺すつもりなのか」
「質問に答えて!」
こちらを睨みつける彼女だったが、何度か外へ視線を向けていた。きっと彼女はシビュラと一緒にいる了一を見つけていたのだろう。
「見ればわかるだろ。あれは別人で、俺は最初からお前の後ろにいたんだよ」
種明かしをすれば、彼女は気がつかなかった自分に腹を立てているように舌打ちする。
俺は彩芽の顔をした彼女を視界の中心に入れる。
不自然な引っ越し。
俺の病気を知っていた理由。
スーパーで出会った彩芽。
何度も殺されるシビュラ。
それらの情報を統合して了一が出した結論は、これだった。
「お前は、未来から来た彩芽なのか?」
「犯人は、纐纈彩芽です」
ガツンと殴りつけられるような衝撃に襲われる。
予想はしていた。最初に了一が彩芽のことを気にしだした時から、彼は疑っているのではないかと。そして、覚悟もしていた。もう一人の彩芽に出会って自分の違和感の正体に気が付いた時から、最もおかしな行動をしている人間は彼女だと。
しかし、こうして言葉にされるとどうしても、堪えた。
そんなにも俺にとってその結論は受け入れがたいのか、つい反問を返してしてしまう。
「なぜそう言い切れる?」
「状況的に最も怪しいからだよ。とはいえこれでは起訴するのは難しいだろうけれどね」
やっぱり彼はじれったく余計なことを付け加える。了一のその癖に今はたまらなく腹が立った。
「それを説明しろと言ってるんだよ」
「これはシビュラの問題ではなく、慎、君の問題なんだ。そして、君はどういう時に人間が他人になりすますと思うんだい? それはね、人に罪をなすりつけるときだよ」
「やめろ!」
それじゃあまるで、彩芽が最初から殺人を犯すために、俺にああして近づいたみたいな、いや、だが、彩芽は別にいた。じゃああれは彩芽ではない? でも、間違いなく彼女は俺のことを――
「そうだ。じゃあ引っ越してきたあれは誰なんだ。彼女は間違いなく彩芽なんだ。俺のことを知っていて、過去を共有している。幼馴染の、纐纈彩芽なんだよ」
少なくともそれだけは間違いない。あの時の出来事は俺と彩芽しか知らない。彼女が誰かに話すわけもない。彼女以外の誰も俺のことを知ってやしないんだ。
だがこんなこと了一にはわかるわけもないとそう思ったが、意外にも、彼はそれにうなずいた。
「君がそういうのならそうなんだろう。君と彼女は過去を共有している。今も一緒にいる。じゃあ、未来は?」
「どういう意味だ?」
了一は俺のノータイムの返問へ一呼吸もったいぶってから、結論を述べた。
「彼女は、今じゃないいつかから来た、未来の君の幼馴染ということさ」
「どうしてそこまで……っ……!」
そう指摘しただけで大きく動揺した様子を見せる彼女に、俺は逆に驚いていた。
了一の推理は妙な説得力を持っていたけれど、それでもトンデモ理論だと半信半疑の自分がいた。
まさか本当に、タイムスリップだっていうのか?
ただ、どちらにせよあの銃を見る限り、彼女がシビュラを殺そうとしている犯人であることは確かだった。
遠くきっとショッピングモールを歩いているのだろう俺の友人を見つめるように目を細める。
「そのスコープの先にいるやつが推理好きのオカルトマニアなんだよ。いくら緒方先生に太鼓判を押されたからといってもまさかとは思ったが、その様子を見ると……正しかったようだな」
まあその緒方先生もオカルトマニアなのだけれど。
説明を聞いて自分がどんな立場に置かれているか理解した彩芽は俺から逃げるように、じりじりと後ずさりする。それはつまり、フェンス際に設置されたライフルに近づいていくということであり、俺を焦らせるには十分な光景だった。
俺はどうにか彼女を説得しなければという思いに駆られて、いらないことを口走っているかもしれないと考えながらも、焦燥が背中を押した。
「別に人を殺しちゃいけないなんて道徳論を説くつもりはない。シビュラが人間なのかはちょっと怪しいところだしな。でも、シビュラを殺すのはやめてくれ」
彩芽は俺の説得に忌避感を示すかのように後ずさりを続け、俺はそのたびに一歩前に踏み出す。
「俺がなぜここにこれたのかとか、シビュラを殺したらどうなるのかとかまあ色々話せば長いんだが、もちろん、どうして俺が止めるのかも含めて全部話す。だから、まず銃を渡せ」
カシャン、と音がして、彼女の背中がフェンスに触れた。
俯いたままの俺の幼馴染は心を吐き出すかのように微かな呟きを零す。
「慎は、やっぱり、あの女を選ぶんだ」
今、なんて言った?
「とりあえず、さようなら」
今度は、はっきりと言葉を口にする。
しかし、彼女が言った意味を理解するよりも先に、彼女はフェンスを蹴り出して弾けるようにこちらへ飛びかかる。
その手にあるのは、黒い箱のような――スタンガン?
疑問の答えは、俺の意識の消失をもって示された。
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