10-3 最も小さくて


 隣室のインターホンの前で煩悶する。

 最初部屋に戻ったものの俺はそこに彩芽がいないことを見て取った。いつも実験から帰ると朝家を出た時と同じように彼女はそこにいたが、実は一旦部屋に戻っていたわけか。

 つまり、接触するためにはわざわざこちらから出向かなければならないわけだけれど、そういえば、こちらから彼女を呼びに行ったことはこの十回のループの中でも一度もなかった。

 本当なら、顔を合わせることさえ俺の主義に反する。

 どうしたものか、と俺は腕を組んでじっと扉についたレンズを見つめた。

 そもそも接触しろといったって何から始めればいいんだか。さっきの推測では引っ越しの理由とかに探りを入れろとかそういうことなのかとも思ったが、それにしたってどう聞けばいいのか。

 もう随分とまともなコミュニケーションをとってきていないツケが回ってきたという感じだった。

 なにかを言わなければならないことはわかっているのだけれど、何を言えばいいのかわからないというか。それは、もうずっと感じてきていた。この何回ものループの中で彩芽と相対するたびに、俺は何かを、言わなければならない気がしていた。それは秘密を打ち明けてしまいたいという衝動なのか、それともいつか彼女が言ったように、困難を相談するということなのか。

 しかし、この状況ははたから見れば告白しようして躊躇いが勝ってしまっているようにも見えなくはない。

「ばかばかしい」

 ああ、本当にばかばかしい。

 ただ今日はたまたま俺のほうから彩芽に会いに行こうと思っただけだ。それに、時間軸としては今朝の今なんだから、事情を聴きに行くのは当然のことだろう。

 そう自分に言い聞かせて、俺はドアベルに指を乗せて、力を入れる。

 ピ――

「痛っ!」

 最初の音が鳴るよりも前に扉が勢いよく開いて、ドン! と俺の額を叩いた。額を抑えながら顔を上げると、扉からは家主が顔を出していた。

「そんなところでいつまでもうだうだなにやってたのよ」

「み、見てたのか?」

 どうやら俺が扉の前にいたことには気が付いていて、覗き見ていたらしい。じゃあ、「この向こうにいるのか……」みたいにレンズを見つめていたとき、実は本当にその向こうにいたというわけか。

「不審者かと思ったわよ」

 内部にいる人間からは葛藤する男子のほほえましさは伝わっていなかったらしい。

「まあいいわ。ちょうどそっちに行こうかと思っていたところだったから。先に戻っておいて」

「結局うちに来るのか……」

「まだ引っ越しの荷物が片付いてないの。しょうがないでしょ」

 確かに、昨日の今日では片付いていなくても仕方のないことだ。俺だって来たときはベッドの組み立てとか家電のセッティングとかできちんと落ち着いた生活を送れるようになるまでにはずいぶん時間がかかったような覚えがある。

「片付かないなら手伝うか? 女子一人では大変だろ?」

 俺がドアの隙間からどんなものかと中を窺おうとすると、彼女は見せまいとするようにバタン! と扉を閉じた。すぐに向こうから慌てた声が響く。

「か、片付いてないって言ってるでしょうが!」


「おじゃまします」

 追い返された俺が部屋に戻ってからいくらかして、彩芽は呼び鈴も鳴らさずに玄関を開けて家に入ってきた。訪れたのは二度目のはずだろうに勝手知ったるという様子だ。

 上着を脱いでこたつに滑り込んだ彼女はすぐに顔を上げて用向きを尋ねる。

「それで? さっきはなんの用だったの?」

「ああ、別に用というほどではないんだが……」

 こうして改まってしまうとどうしていいかわからない。

 というか了一は俺に彼女と接触しろと言ったがもともと実験から帰ったら彩芽は家にいたのだから大して変わらないような気もしてきた。

 しかし、ひとまず聞いておかなければならないことから聞いていくべきか。

「その、なんでまたこんなところに引っ越してきたのか、と思ってな」

「そんなことを聞くためにわざわざうちに来て部屋の前でうんうん唸ってたわけ?」

 別に唸っていたわけではない。ただ、どうしても踏ん切りがつかなかったというか、自分から踏み込んでいくのは得意じゃないんだ。

 それも、向こうから踏み込んできてくれる彩芽と昔からいたせいかもしれないな。

「結構重要なことだろ。俺がこれから飯を作るモチベーションにもかかわる」

「えっ、それってこれからもご飯作ってくれるってこと?」

 しまった、失言だった。こんなことを言ったらいつまでもたかられかねない。そんな餌付けをしてやれるほど俺は潤沢に仕送りをもらっているわけではないんだ。

 だがここは話を進めるために肯定しておくしかないか……。

「ああ、わかったよ。それでいいから、なんでだ?」

 催促するように聞き直すと、彼女は彼女らしからぬ愁いを帯びた瞳でこちらを見返す。まるで彼女が俺よりもずっと年上の大人であるようにすら見えて、胸がざわめいた。

「そうだね。まあ、一言で言うなら、〝時間がないから〟かな」

「時間……?」

 まるで燃え尽きる寸前のろうそくを見つめるような、砂時計の落ちていく砂粒を数えるような、もはやじれったさすら感じる焦燥。

 もうすぐ終わってしまうならもう終わってしまえと思ってしまうほどのじりじりと胸中を焙られるような緊張。

 それはむしろ、彼女ではなくて、俺こそが持っているはずの――

「ねえ、慎。なにか隠し事とか、してない?」

 虚を突くように彩芽は俺に尋ねた。

 隠し事、というか言っていないことならばいくらでもある。

 シビュラのこと、母親のこと、あの時からの俺のポリシー、今日彼女を訪ねた理由、そして――病気のこと。

「お前……まさか……」

「やっと気づいた? そうだよ、私知ってるんだ。慎の病気のこと」

 あっけに取られて、俺ののどからはなんの言葉も出てこなかった。

 いくつもの感情が渦どころかとぐろを巻いてのどの奥に居座ってしまったような。

 それじゃあ、今まで頑張って隠していたことが馬鹿みたいじゃないか。でもループしているのだから実際にはそんなことをしているとは言えないのか? ただ、そういうことなら彩芽がこのタイミングで接触してきたことに説明はつく。そもそもどこまで知っているんだろう? ていうか彩芽はどこでそれを? このことを知っているのは家族と医者と高校の教師の一部と了一くらいだ。彩芽が知ってしまったとして、俺はどう彼女に接すればいい? 彩芽はそれを知ってどう感じたんだ? 彩芽は――

「だからね、知ってるんだ。あの時、慎がどういう状態だったのかも」

 

 三年前。

 俺と彩芽はまだ中学二年生で、幼く、今も子供だけれど、今よりもずっと子供で、自分にはどうすることもできない感情に振り回された。

 十二月の教室は寒く、早々に闇に包まれる。だから、俺はそこにいた。

 帰路に溢れる同級生は誰も彼も未来に不安なんてないという顔をしていて、家に帰れば母の絶望を目の当たりにしなければならない。どうすることもできなくて、日が暮れて誰もいなくなるまで俺は教室で息を吸ったり吐いたりしていた。

 そこに彼女が現れた。

「慎、どうしたの?」

 その時、彼女とは別のクラスだったから、教室での俺の変化を見ておらず、ただ本当に見かけたから声をかけたというだけだったのだろう。

 彼女はいつも通り大したことのない話を振ってきて、ぺらぺらとよくしゃべった。思えば顔を合わせたのも久しぶりだったのかもしれない。だから、彼女は暗い教室の中で一人机に座っている俺に益体もないおしゃべりを続けていた。

 最初こそ生返事をしていた俺も、だんだんとイライラが募って黙りこくる。こいつは何も知らないで、俺はもう何もないのに幸せそうで、怒りすらこみ上げる。早くどこかに消えろ。俺は一人になりたいんだと。俺はただ黙っていただけだったというのに、そのくらい察してくれるとどこかで思っていて、だから、カッとなって―― 


「あの時、慎は病気が発覚してすぐだったんだよね。だから――」

「違う!」

 違うんだ。そんなことなんの言い訳にもならない。

 俺は間違いなく俺の意思で彩芽の気持ちを足蹴にした。俺が嫌な気持ちになるからという理由で、他人を傷つけた。

 だから、決めたんだ。

 彼女の絶望を見て、声も出ない濡れた瞳に晒されて、後悔した。自分は愚かで、彼女に無用な傷を負わせてしまった。だから、せめてその傷が意味のあるものになるように。その悲しみがもっと大きな悲しみを防ぐための布石になるように。

 そうして、俺は自分の存在が消えることで生まれる悲しみをできるだけ小さくしようと決めた。

 もう先もない自分なんかのために誰かが苦しむことがあってはならないと。

 あの時彼女が流した涙が俺のために彩芽の流す最後の涙であるようにと。

 それなのに――知ってしまった。

 死んだとき彼女は苦しむだろう。悲しむだろう。そう思うことも傲慢かもしれないけど、もう目を覚まさない俺の前で涙を流す彼女を思うと身が張り裂けそうになる。

「……なんで、引っ越してきたんだよ」

 俺は再び同じ質問を口にした。

 今度は疑問よりも糾弾の意味で、なぜを繰り返す。彼女がなんて答えるかなんてわかっているはずなのに、俺は今まで抑えていた感情が溢れだしたように繰り返した。

「だから、あの時のことはもうわかったから、もう一回最後まで私と――」

「ふざけるな! なんで……! 忘れていればよかっただろ! 俺は、お前が……だって、最後まで一緒になんて、そんなことしたらお前は、絶対に……!」

 泣くだろうが。

 言葉にならなかったそれを彼女が拾い上げる。

「泣くよ。絶対に」

 彼女はまっすぐに俺を見つめた。

 あの時と同じように、しかし違う感情に濡れた瞳は俺の口をつぐませるのには十分すぎる力を持っていた。

「だったら……!」

「……そんなことを言ってくれる人を、三度も忘れられるわけないでしょ」

 それでも、そんな彼女だからこそ、俺は守りたかったというのに。

 秘密を守ることもできず、言い負かすこともできなかった俺は心の中で負け惜しみを呟く。それからはもう黙るしか――ああ、いや、一つだけ言わなければならないことがあったか。

 彼女と顔を合わせたあの時から言わなければならないことがあるような感じがしていて、でもずっとそれがなんなのかわからなかった。

 こうなった今ならそれがなんなのかわかる。

 俺と同じように黙ったままこたつの天板を見つめていた彩芽に声をかける。

「なあ」

「なにさ」

 不機嫌というわけでもないだろうがつっけんどんな返答。すこし鼻声かもしれない。

 まあそのくらいのほうがいいやすい。

「ごめん」

 彼女はすぐには答えを返さなかった。代わりに前髪の隙間から上目遣いに視線を向けた。

「あの時のこと、ずっと謝りたかった。でも言うわけにもいかなくて、でも、もうこうなったから、ごめんな」

 その後どんなことを俺が考えたとしてもあの時彼女を傷つけたことは事実で、変わらない。だから謝りたかった。

 ばれてしまってたのは俺の短い人生の中で一番の失敗だといえるくらいだけれど、こうして謝ることができたことだけはよかったと思う。

 じっと彼女は俺のことを見つめていたけれど、窓の外を雲が流れていくのを眺めているうちに口を開いた。

「許さない」

「そうかよ。別にいいさ。俺が謝りたかっただけだ」

「もっと謝って」

「ごめん。これでいいか?」

「よくない。……私が、あれからどんな気持ちだったと思ってるの」

 彼女の声が涙に震える。

「あの時から……慎がいなくなってから! 慎がいなくなって、慎の病気のことを聞いて、私がどれだけ……! 私のことを泣かせたくないって、悲しませたくないって思うんなら、私のこと、もっとちゃんと守ってよ!」

 彼女の正直な気持ちの吐露は、どこまでも俺を責め立てていて、真正面から俺を弾劾していたけれど、俺はそれをどこか心地よく感じていた。

 いつだってこんな風に責められるのを望んでいたのかもしれない。そうやって心地よく感じることも彼女の未来の犠牲の上に成り立っていると知っているのに。

 でも今だけはそれを甘んじて受けよう。

 さんざん叫びつくした後で、荒げた息を整えながら、彼女は初々しく目を伏せて、ぎゅっとこたつ布団を握りしめた。

「だから、一つだけ、いい?」

「なんだよ」

「ちゃんと私のこと、名前で呼んで。お前とかじゃなくて」

 そういえば顔を合わせてから俺はずっと彼女のことを名前で呼ぶことを避けていた。それはきっとこうやって彼女と向き合いたくなかった俺の心の表れだったのかもしれない。

 それもまた、俺の罪だ。

「彩芽。……ごめんな」

「許さない。だから――もっと呼んで。ずっと呼んで。あなたの口が動かなくなるまで」

 それは、俺の知っているわがままな彩芽で、相も変わらずそんな困難な要求をしてくる彼女に俺は図らず笑みが零れる。

「はいはい、彩芽さま」

「はいは一回!」

 隙間風の吹き込むワンルームに幸福な笑い声が響く。

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