第2話 勉強してる姿ってウンコしたりゲロ吐いたりしてるのと同じだよ
「それが17歳の私の夢なんや・・・」
「でもさぁそれってさらだの越えなければいけない壁でもあるんだよねぇ」
ずっと隣で私とママのやり取りに耳を澄ましていた菜月が広げていたセンター試験の日本史の過去問を閉じながらため息をつくようにそう言った。
「なんなん、なつき?他人事?」
沢野菜月、18歳。4月1日が誕生日の彼女は3月生まれの私とは同学年とはいえほぼほぼ一年お姉さん。そのせいかどうかは知らないけど事あるごとに変な母性を私に押し付けてくる。でもその容姿はというと、アイドル系の童顔でどう見たって今時のLJK。私と並ぶと中学生にしか見えないんだから、ちと話がややこしくなる。
「だってそうだよ。さらだが今足りないもんは覚悟。
進学と平行させてそんな夢が叶うと思うん?」
言ってることは正論。でも言い方と態度がむかつく、
いつもの菜月の説教癖につい口調も荒くなる。
「じゃああんたは何やのん?」
「なによ?」
「いきたくもない医学部、行こうとしてるやん」
「・・・・」
机の上にずらりと並んだファッション雑誌。表紙にはこの春のトレンドヘアスタイルだのリップのトレンドがどうだのメイクのハウツーだのそんな記事が 躍っている。
みんなが難しい顔をして参考書や過去問とにらめっこするこの図書館で彼女が勉強するのは見たことがない。
勉強してる姿って人に見せるもんじゃない、それが菜月の彼女なりの持論。
───それってウンコしたりゲロしたりしてるとこを見せるのとおなじだよ
彼女には周りで汗しながらノートにペンを滑らし頭を抱えて過去問のページをめくる同胞がみんなそう見えるらしい。
そんな姿を見せなくても菜月は校内模試では学年で一二位を争う位置に常に居る。
裏で勉強はやってる、死ぬほどやってる、誰にも負けたくないから、あどけない顔に不似合いなほどの目力でいつもそう訴えてくる彼女を横目で見ながら、私はいつも考えてる。
いつかこやつは必ず天下を盗るって。
ただ、今その菜月の底知れないエネルギーは空回りを始めている事も私は知っているんだけど。
「ううーん、もうええわ。うち今それどころやないねん」
広げていた本を片付けながらCASIOのベビーGに再び目を落とす。
もう五時を5分回った。
「ほらぁ、菜月が変な突っ込みぶっ込んで来るからぁ」
「そっちでしょ、絡み返して来たのは」
「あ、そうや。電チャリ貸してもらうね、菜月」
「えっ・・?」
私は知っていた。遅れそうになった時は禁止されている電チャリをこっそりと裏のセブンイレブンに置いている彼女の事を。
「ちょっとぉ、いつから知ってたの?」
「はいはい、それはまた今度ね。ほら、鍵出しなさい。じゃないと言いつけるで、
あんたの大好きな、ぽよ先生に」
ぽよ先生。それはここで語るとまた話がややこしくなるのでまた後ほど。
「もぉ、じゃあ今日私はどうやって・・」
「帰るのって? いるでしょ、誰でも。ライン一本でよだれ流しながら車で駆っ跳んで来る輩がいっぱい」
「さらだぁ!?」
「こら、そこ!いい加減にしなさい!話があるなら外でしなさい!」
奥から響いてくるそんな司書のおばさんの声を背中で聞きながら
もう私は図書館の外へと駆け出していた。
※※※
河原町通りの人並みを自転車で縫うように走っていく。
自転車は押してください、のアナウンスも今日の私には聞こえない。
もうすぐ日が暮れる。できればあやつとの初のご対面は明るいうちに済ませたい。電球の淡い灯りの下で小首を傾げたりされた日にはもう二度とあそこには足を踏み入れられない。
――考えすぎやん、誰かが虫干しにでも置いてくれたんやろ
ラインに踊るの姉の文字は私にはなぜか楽しそうに見えた。
姉の沙南無は私とは違って理屈に合わないものを怖がることはない。
説明のつかない霊現象や科学的根拠のないお化けの類いは鼻で笑う。
何でも数式に仕立て答えを出そうとする典型的な理系女の姉。
研究者志望であのIPS細胞の山中教授に憧れ京大理Ⅲに入ったものの結婚が決まるとあっさりとその夢を捨て専業主婦に収まった。
夢の確率を計算するのは馬鹿げてる,
それがこの3つ年上の姉の口癖。
そんなことをぼーっと考えていたら目の前の赤の信号を見落とす。通り過ぎてから飛んでくる強烈な連射のクラクションに肩を竦める。
(そんなに鳴らさんでも・・・)
京都人は実は人一倍せっかち。車に乗るとみんな性格が変わってしまうほど。だから夜の京都市バスは恐くて乗れないのは有名だ。
バス停は急ブレーキ急発進だし、堀川通りの160Rは毎回ほぼほぼ強烈なGが背中にかかる。
(京都人ってみんなはんなり生きてるって思われてるけど、ほんまにお門違いやわ)
舞妓ちゃんはこっぽり履いて超速で走ってるし、お坊さんの足はマジェスティやPmaxのビッグスクーターが主流、お寺の鐘の連打はエイトビートを刻んでるみたい。
(あかんあかん、私なにしょうもない事考えてんねんやろ)
気を取り直して目を東の方にやる。もう東山の稜線にはきれいにクオーターに割れた上限の月が顔を出し始めていた。
丸太町通りから寺町通りに入るともうそこは狭い歩道に家路を急ぐ人が溢れていた。
ここは流石に危ないので自転車を降りて押しながら人混みを縫うように早足で歩を進める。店まではもう普通に歩いても三分とはかからない。通りには暮れなずむ空の裾野を彩るようにレトロなオレンジ色の街灯がぼんやりと灯り始めている。
(なんとか陽が沈まへんうちに着けそうや)
額から流れ落ちる汗を手で拭う。北白川からここまで、いつもは30分はゆうにかかるところを20分で来たことになる。
安心したら急にお腹が思い出したようにクゥと鳴った。そう言えば今日はお昼から何も口にしていない。いつもはお決まりの菜月との買い食いもそんなこんながあってできなかった。
もう夕飯時、通りのお店やさんからここそこでいい臭いが漂ってくる。
「さらちゃん、大変やったなぁ」
大きな声で行く手を塞ぐように声をかけたのはおばんざい屋「てまりや」の鶴子おばさん。
ここは私が侘助堂に居座るときはほぼほぼマイダイニングルーム。朝昼晩と私の旺盛な食欲をそのおふくろの味で満たしてくれる。
「鶴さん・・」
「あらあら、こんなにぎょうさん汗かいて、別嬪さんが台無しや」
鶴さんのひんやりとした掌がうなじを濡らした私の汗をそっと拭う。料理の途中なのだろう、その手からは千枚漬けのつんと鼻をつく匂いがした。
「じっちゃんが・・・」
「うん、うん、聞いてる、聞いてる。軽い脳梗塞やろ。発見が早かったから良かったって、ママさん電話で言うてはったえ」
「ママが見つけてくれはったんは近所のひとやって言うてたけど、もしかして鶴さん?」
「いいや、それは私やあらへん。私が気がついたんは救急車が来てからやし」
「ほんなら、連絡してくれたんは誰なんやろ?」
「ここら辺はみんな家族みたいなもんやし。侘助堂が昼まで開いてなかったら、そら、誰なと心配するやろ」
「そうなんかなぁ」
そこんところは私のなかではずっと腑に落ちていなかった。ママへの連絡はショートメール、ここらあたりの商店主はほとんどがおじさんやおばさんが多い、急な連絡をするなら迷わず、面倒なメールより電話を選ぶのが道理のはず。
「あっ、それと旬さん、来てはるみたいやで」
「旬兄さんが?」
「うん、今さっきお惣菜買うて帰らはったん、大好物の生姜の天ぷら」
朱雀旬。私の姉の夫。つまり私のお義兄さん。
「相変わらずええ男ぷりやなぁ、旬さん。色が白おて、しゅっとして、京大の先生言うよりも南座で舞台に立った方がお似合いやわぁ」
鶴さんの頬がぽっと紅を差したように赤らむ。まだ40路を下ったばかりの鶴さんやけど、惚れっぽいところは昔から。けど去年、長年連れ添った旦那さんを病でなくしてひとりもんになってからはまたそれに拍車がかかったような気がする。
「危ない危ない。相変わらずやなぁ鶴さんは。ひとのもんに手出すのは天下一品やから」
「いやー、えらい言われかた。さらちゃんもそないな事言えるようになったんや」
「まぁね、これでも女性としての経験はいちおう終わってるから」
「沙羅陀ちゃん?・・・」
辺りを憚り、咎めるような小さな声を絞り出す。
人を疑うことなく情け深くてお人よし、性善説を絵に描いたように生きてる私の鶴おばさん。
「ほらぁ、またそうやってすぐ騙されるぅ」
「さらちゃんっ!」
また後で行くからね、後ろ手で手を振りながら私はひとまず愛すべき隣人に別れを告げる。
「旬さんも一緒にね~~!」
夕暮れの寺町通りに響く、お酒焼けした鶴さんのハスキーボイス。
私にとっては何も変わらない、いつもの姉小路界隈の日常だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます