10.昨日の約束を①
昼食後、少し寝たらだいぶ体調が良くなった。手を握ったまま、横で寝てしまっているメシアを見て、私は口元を緩めた。
夕焼け色の光が私たちを朱色に染める。いつの間にか夕方になっていたようだ。
その時、横でもぞりと身体が動いた。見ると、ベッドに伏せて寝ていたメシアが身体を起こしている。
「……メシア? ごめん、起こしちゃったかな」
『……だいじょーぶ』
僅かな間の後、その6文字を手のひらに書いて小さく笑う。私は布団から足を出して、床に降りる。
多少の痛みは残っているものの、私の身体は普通に動くようになっていた。
今朝は休んでいいと言われたが、良くなったのにずっと休んでいるわけにもいかない。もう夕方で多分追い出されるだろうが、出来ることがあれば何でもしなくては。
メシアが心配そうに私を見上げる。引き止めるように手を握った。
「私ビアンカさんに、もう大丈夫だって伝えなきゃ」
ここで待ってて、とそっと握られていた手を外す。言い聞かせるようにして言うと、こくん、と頷いた。私は酒場の指定服に着替えて部屋を出る。
「少ししたら戻るから」
そう言い残せば、寂しげな顔でメシアが見送る。……取り残す申し訳なさに胸が痛んだ。
動かした身体に少し痛みが走る。が、今朝に比べればまだマシだ。問題は無い。
私はそのまま下へと続く階段を降りていった。
◇◇
酒場は相変わらずの賑わいだ。カウンターで忙しそうに動き回るビアンカは、私の姿を見つけると手を止めて話しかけてきた。
「──ん、リィンか。もう動いても大丈夫なのか?」
「はい、平気です。十分寝たのでかなり良くなりました」
「それなら良かったが……こんな事はよくあるのか? 私は初めて見たが……」
「はい、たまに……。でも大丈夫です! 休めば治りますので」
そうか、とビアンカは思案げな顔で俯く。少ししてから話す。
「もし、変な輩に何かされたらすぐ私に言え。……まあ、出来るだけそんな事がないよう私が守ってやるがな」
優しい手つきで頭を撫でるビアンカに、私は「ありがとうございます」と顔をほころばせた。それに満足したのか、ビアンカがニヤリと口角を上げた。
「──よし、今日は特別だ。閉めるまでここに居ても良い。ただし、カウンターから外には出るなよ。……ああ、本人の同意さえ得られればメシアが一緒でも構わないぞ」
「……ほんとに!?」
「今日だけな。夜の雰囲気を知るのも良い経験になるだろう」
敬語すら忘れて私は驚く。夜に残っていてもいいと言われたのは初めてかもしれない。急いで2階にいるメシアを呼びに行く。
──この時私はすっかり忘れていた。明日も来ると言った自分の言葉を。
嬉々としてメシアを連れて下に降りる。酒場は夜になると更に賑わいが増す。それを間近に見れるということで、私はわくわくしていた。
カウンター越しに2人で客の様子を眺めながら、ビアンカに話しかける。
「……そういえば、今朝の男ってどうなったんですか?」
少し気になっていた事を聞くと、珍しく彼女は吃った。
「ん? ああ、あの男か……あー、その、な」
「……ビアンカさん?」
「いや、あの男が豹変した原因が皆目見当もつかなくてな……何度問いかけてみても同じことしか言わない。それで、一応拘束してから王宮騎士団に報告したんだが……」
ここで一旦ため息をつく。
「害はないだろうとの判断ですぐに解放されたんだ」
「そうなんですか……」
「私としては、 拘束しておいた方が安全だと思ったんだが、実害なしに拘束できる権限はこちらにはない。一晩寝たら戻るだろうと、男は自分の家に帰されたよ」
ただ天使に会わせてくれと連呼する男だ、とビアンカは言う。
私は実際にその豹変した男を見たわけじゃない。危険かはわからないが、確かにそれだけならば害はないだろう。……でも少し、嫌な予感がする。
「……ビアンカさん、天使族とはどういった種族なんですか?」
私の問いかけにビアンカは、少し考える素振りをしてから答えた。
「そうだな……。はるか昔には姿が確認されていたが、今は姿を隠し何処にいるのかもわからなくなった存在……詳しい生態や種族特有の能力については殆どわかっていないらしい」
「ビアンカさんも見た事がないんですか?」
「……残念なことにな。死ぬ前に1度は見てみたいと思ってはいるが」
記録によると相当な美しさらしいぞ、と客に麦酒を出しながらビアンカはニヤリと笑う。棚から焼き菓子の入った包みを取り出すと、私たち2人にそれぞれ分ける。
「何もしないで見るのも退屈だろう? 食べて良いぞ」
「わあ、ありがとうございます……!!」
メシアも嬉しかったようで、パァァと口元を緩ませている。ここまでわかりやすい反応は本当に珍しい。ビアンカも、黙々と菓子を頬張るメシアを見て目を丸くしていた。
「……メシア。そんなに慌てて食べると喉に詰まらせちゃうよ? ゆっくり食べよ、ね?」
優しく声をかけると、彼は素直に頷く。私もふかふかの生地を口に運びながら、初めて見る夜の酒場を眺めた。
昼よりも男性客の割合が多い。麦酒片手に頬を上気させ、仲間同士での会話を楽しんでいる。
頬杖をつきつつその景色を見ていると、1人の男性客が話しかけてきた。それを皮切りにどんどん私たちの周りに人が集まってくる。
「へえ、看板娘ちゃんが夜にいるなんて珍しいね。お仕事かい?」
「お仕事じゃないよ。ただ見てるだけ」
こうして好意的な態度をとるのは、全て馴染みの客だけだ。私を知らない客は、場違いな存在に若干の嫌悪感を顔に滲ませている。
そしてどうやら、住み込みで働くうちに酒場の看板娘となっていたらしく、看板娘ちゃんと呼ぶ客も多い。
……何となく嬉しかったので、その呼び名は直してはいない。
わらわらと集まってきた客の1人が、私の横を指さして聞いた。
「──そっちの子は? 普段見かけないけど……随分と綺麗な子だね。男の子かな?」
「この子はメシア、おにーさんの言う通り男の子だよ」
相変わらずメシアはもぐもぐと口を動かしている。こちらの事は微塵も気にしていない様子だ。時折、チラと私を見ては再び菓子を頬張っている。
「へー、メシアくんね。あ、もしかしてメシアくんもここで働いて……」
「それよりもおにーさん、その剣かっこいいねっ! 特別に作って貰ったの?」
突然遮られたことで、一瞬「え?」と戸惑った男性だったが、自身が背負っている剣に話題が移ると途端にだらしのないニヤケ顔となる。
「あーこれ? ……へへっ、やっぱ分かっちゃう~?」
「うんうん! おにーさんの凄くかっこいいよ?」
あくまでも褒めているのは剣の方なのだが、酒の入った男性は自分が褒められていると勘違いをする。
上手く話の誘導ができた私は、客の自慢話を適当に頷いて聞き流す。
……危なかった。あまりメシアの事は聞いてきて欲しくない。
咄嗟に出てきた話題が剣だが……それは正解だったようだ。自慢げに語る男性を横目に、焼き菓子を咀嚼する。周りの客も当たり障りのない反応をしていた。
見るからに無駄な装飾が付いた鞘、持ち手にも立派な彫刻が施されている事から、恐らく金は持ってる。装備品の質も悪くない。
(……多分、金で何とかしてきたタイプなんだろうなぁ。剣士の割にはそこまで鍛えてないっぽいし……)
防具の上からでも、チラリと覗く腕などを見るとわかる。
それに、この男はよく酒場に入り浸っている客の1人だった。ちゃんと
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