8.夜に②


「……おにーさん、逃げちゃうの。──そう」



 少女は一旦目を伏せた後、ただ少しだけ男を見つめた。──刹那、一時停止したかのように男の動きがピタリと止まる。



「なっ……」



 いくら動けと命令しても動かない手足。ギョロリと目だけを動かし、男はいつの間にか横で佇む少女を睨みつける。



「俺に……何をした!!」



 詠唱らしきものは聞こえなかった。何をされたのかさえ分からない恐怖が男の体を蝕む。少女はその質問には答えず、他のことを語り始めた。



「──詠唱をする事自体が隙となる。だから、他の世界では無詠唱が基本中の基本、そう教育されていた」


「他の世界だって? てめぇは一体何を……」


「そもそもこの世界の魔素の使い方は無駄が多い。こうして話している間にも空気中に漏れているのだ──全員がそれを利用しないとはな」



 まあそのお陰で私は助かっているがな、と少女はハッと嘲笑に似た笑いを浮かべる。



「私が知ってる中で、この世界の魔法は最も酷く非効率。……私も慣れるまでに苦労した。どうやら幼い身体に他世界の魔法は辛いらしい」


「他世界だとか意味わかんねぇことばっか言いやがって……早くこの訳わかんねぇ魔法を解きやがれ!!」


「……話くらい聞いてくれてもいいのに。まあ、私もそろそろ解除した時に辛くなるだろうし──解いてあげるね、おにーさん」



 額に青筋を浮かべ、噛みつかんばかりに怒鳴り声をあげる男。まるで前世の記憶にあった鬼のようだと少女は嘲笑う。


 白く細い人差し指で宙をなぞるだけ。それだけで見えない拘束が消えていく。つんのめるようにして解放された男は、目の前に立ち塞がる少女を警戒してか、その場で素早く短剣を抜き構えつつも動こうとはしない。



「てめぇ……何もんだ?」


「子供相手に刃物なんて向けないでよぅ……おにーさんはこわいなぁ」


「答えねぇ気か、こんの……」


「ただの下働きだってば」



 怒鳴ろうとした男の口は、突如自分の意志とは無関係に閉じられた。見下ろすと、しぃー、と少女が口に人差し指をつけている。呆れたような、困ったような顔で息を吐き出した。



「──精神干渉系魔法の対策は基本中の基本……なんだけどなぁ。この世界の魔法知識はどうなってるんだろ……」



 「うーん」と細い腕を組んでは眉を顰める。表情ひとつ動かさずに、男から放たれた鋭い一閃を人差し指だけで止める。


 男がどんなに力を込めても、止められた短剣はそれ以上前には動かない。血が上って赤くなった顔は、底知れぬ恐怖によって段々と青ざめていく。


 つぅ、と受け止めた指から赤が垂れた。驚きと共に奇襲に失敗した男は素早く飛び下がる。

 対して少女は、ぱっくりと割れた自身の肉から流れるソレをぼんやりと見ていた。



「……血」



 それは流れ落ちては寝間着に小さな点を作る。暫し無言で見つめていたが、やがてポツリと「……あー、そっか。身体強化のⅠだからか」



「まあいいや、この程度なら一瞬で治せるし。……さっさと終わらせちゃお」



 地面に置かれたままだった羊皮紙を回収すると、少女は動くことが出来ないでいる男の元へ向かう。「精神干渉系魔法にも拘束できる魔法があるんだよ」と無垢な笑顔で、逃げようと奮闘する男に話しかける。


 男は焦った。これでは鬱憤を晴らせないどころか、命の危険だってあり得る。最初に感じていた憤りは、いつの間にか恐怖へとすり替わっていた。



(クソっ何で……何でこんなガキに……!! こんなの人間じゃねぇ──化け物だ)



 見た目は普通の子供と何ら変わりはない。だが、男の眼球には彼女が恐ろしい何かとして映されている。恐怖を露わにする男に、彼女は安心させるかのように微笑みかけた。



「そんな表情しなくても……。──おにーさんは今日、酔っ払ってこの路地裏で寝ちゃっただけだもん。……ね?」



 とんだ捏造だ。しかし「違う」と否定しようにも、閉じられた口からはくぐもった呻き声しか出てこない。

 違くないよ、と少女は言う。



「──今からその通りになるから」



 ぴったり10分間だから、ね。



 そう言うと、精一杯の背伸びをして男の顔にそっと手を触れる。瞬間、フッ、と途切れる意識。


 男が何かを言う間も無く、重い音を響かせ力が抜けた体はドサリと地に倒れ込む。

 ソレを一瞥した後、少女は手に持った羊皮紙を破った。全て小さな紙片にすると、パラパラと男の上に落とす。


 これでこの魔法陣は使えない。ギルドへの被害は出さずに済ますことが出来た。


 そう言えば、と巨体の傍にしゃがむ。短期用とはいえ、高位魔法である記憶操作の魔法を使ったんだ、暫くは起きてこないだろう。



「……おにーさんは私が何者だって聞いたよね。でも、言った所で信じてくれないんだろうなぁ……」



 立ち上がり、うつ伏せの男に一瞬だけ目を向けた。すぐに目をそらして通りへと出ると、ぼんやりとした2つの月が浮かんでいる。

 ──地球にいた頃とは違う景色に目を細めた。



「前世の記憶があるなんて」



◇◇



 窓から部屋に戻り、出た時と同じようにそっと布団に潜り込んだ……つもりだったが。

 ぎゅっ、と服の裾を握りしめられる感覚に、上半身を軽く起こした。するりと布団が下がる。



「……」


「あ、ごめん。……起こしちゃった?」



 眠そうに目を擦りながらも、ゆっくりと起き上がるメシア。まだ焦点の合わない視線でこちらをじっと見つめる。

 そして、何やらすんすんと鼻をひくつかせると、無意識に隠していたある一点を指さす。


 そこは、血が垂れてしまった場所。


 私は、ぱっ、と隠していた腕を退け笑顔を作る。



「え? ああ、これ……散歩してたら、怪我しちゃって。でももう大丈夫だよ。私が治癒魔法を使えること、メシアは知ってるでしょ?」



 そう言っても、メシアは何処か納得していないようだった。僅かに目尻を下げてじっと見つめてくる。

 彼なりに心配してくれているのだろう。私は再度、大丈夫だよ、と笑いかけて横になる。



「……もう寝よ。私ちょっと疲れちゃった」



 身体強化魔法はまだ解除していない。メシアが寝るまでは、と私はぐっと我慢をする。なるべく彼には心配をかけたくないのだ。見せたくないという一心で、解除を先延ばしにする。


 くしゃりと頭を撫でると、渋々といった感じでメシアも布団を被った。そのまま撫で続ければ、すぐに穏やかな寝息が聞こえてくる。

 ふぅ、と小さく息を吐いて手を離す。メシアの寝つきが良くて本当に良かったと思う瞬間である。



(これでようやく……)



 解除、と小さく呟く。──刹那、私の身体は大きく跳ねた。襲いかかって来た衝撃に、私は和らげようと必死に身体を縮こませる。



「ぅ、ぁ……」



 神経が焼かれたような鋭い痛みが身体中に走る。声を漏らさないよう口元を手で押さえるが、隙間から呻き声が漏れてしまう。

 身体が痛い、熱い。千切れる。



「ふ、ぐっ……ぁ」



 身体を引き裂かれるような、そんな感覚。……何度も経験しているが、これは慣れるようなものではない。

 生理的に流れた涙が枕を冷たく濡らす。私はぎゅっと自分自身を抱きしめる。


 中を暴れ回る痛みは2、3日消えてくれないだろう。もちろん時間が経てば和らぐだろうが……。これは明日の仕事はお休みになるかな、と布団の中で小さく笑った。


 だが、後悔はしていない。このギルドに何かあったらあの2人に迷惑がかかってしまうからだ。私は仰向けになって瞳を閉じる。



(……守れてよかったな)



 そしてそのまま気絶するように眠りに落ちたのだった。

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