第三章 決意の夜

第1話

 いきなり駐屯地に姿を見せたオリヴィエのために、兵舎はひっくり返ったような大騒ぎになった。隊長のサンシャへの報告はすみやかになされ、彼は自分の部屋を飛び出ると、幻影を捕まえようとするかのような必死さで駆け寄ると、思い切りオリヴィエを抱きしめた。

「……無事だった! 無事なのだな」

 部下たちの手前、けっして涙は流さないが、その声は明らかに震えていた。実の父親のそんな声を聞くのは初めてで、オリヴィエの胸は鋭い痛みを覚えた。今までの、そしてこれからの自分の行動は何一つ間違っていないという自信はゆるぎないが、そのせいでここまで父親を苛んでしまうのはつらいことだった。

「いったい、いままでどこでどうしていたんだ?」

 オリヴィエは、父に悟られないように呼吸を整えると、シルヴィアに教えられた手筈通りに言葉を紡いだ。

 今までは人質として囚われの身であったこと。あの夜、兵たちを振り切った若い雄のユニコーンが他の群れを集めたこと。そのさなかで注意のそれた一瞬をついて、自分は逃げてきたこと。

 レイラの読み通り、王都へ護送中に逃げられたユニコーンの行方と、また新たなユニコーンの出現とあっては、いままで一頭のユニコーンを取り逃がし、ユニコーンを散々死なせてきてしまった部隊にとっては、起死回生のチャンスに思えた。

 サンシャの決断は早く、部隊にすばやく命令を下し、ユニコーン捕獲のための精鋭隊を編むと、それを率いて早々に駐屯地を後にした。

 オリヴィエは、父の横で馬上の人となり、嘘の場所へ導こうとするその瞬間、最後にたった一目でもいいから、エヴァランの姿を見たくてたまらなくなった。

 けれども、もしここで振り返ってしまえば、父は不審に思い、うまく運んだ全てを台無しにしてしまうだろう。だからオリヴィエは、ほんのいっとき、瞼を閉じて、その裏に愛しいエヴァランを思い描いた。

 オリヴィエの努力が実り、隊列が駐屯地を出て行くのをレイラとシルヴィア、そしてエヴァランはしっかりと確認できた。

 精鋭を含む大部分が留守となった駐屯地は、傍から見ても手薄に見えた。しかし、たった一人でも武装している人間がいれば、普通の少女にとっては脅威だ。

 シルヴィアは、そっとレイラの手に自分の手を滑り込ませる。レイラは、微笑んでその手を握り込んだ。それで勇気を得たシルヴィアは、レイラよりも先に立ちあがり、真っすぐに駐屯地の方へと向かって歩き始めた。

 国王の軍の中でも上位にある者なら、王子のいとこのやんごとなき姫君ついては、たとえ直接目にしたことがなくとも、その名と容貌くらいは頭に入っている。しかし、ここにいる兵士たちは末端も末端で、かなしいかな、闇夜にいきなり現れ、静かにこちらへ歩んでくる二人の乙女が誰か知る由もなかった。

 年端もいかない、まだあどけなさすら残る二人の少女が、夜の闇からぼうぅっと浮かび上がり、こちらに向かってくるのは、幻想的でもあり、どこかぞっとした雰囲気も帯びていた。しかし、冷静に考えてみれば、これほどの手弱女になにができるとも思えなかった。

 おざなりながらも、見張りの兵たちは武器を掲げると、ここは王家直轄の駐屯地であると高らかに告げて、即刻立ち去るように告げた。

 そのような言葉で、レイラとシルヴィアが立ち去るわけがない。二人は、呼吸をあわせて、夜の冴えた空気を吸い込むと、ゆるやかに歌い出した。


かみの毛ながきあなたのそばに

睡魔のしぜんな言葉をきく

あなたはふかい眠りにおち

わたしはあなたの夢をかんがふ

このふしぎなる情緒

影なきふかい想ひはどこへ行くのか。


薄暮のほの白いうれひのやうに

はるかに幽かな湖水をながめ

はるばるさみしい麓をたどって

見知らぬ遠見の山の峠に

あなたはひとり道にまよふ 道にまよふ。


ああ なににあこがれもとめて

あなたはいづこへ行かうとするか

いづこへ いづこへ 行こかうとするか

あなたの感傷は夢魔に饐えて

白菊の花のくさつたやうに

ほのかな神秘なにほひをたたふ。


 オリヴィエの声が高まれば、レイラの声が下の響きを支え、またオリヴィエの声が沈めば、レイラが高みを歌う。

 その見事に調和した響きの恐ろしさに兵士たちが気付いときには、もう抗いがたい眠りに陥りそうになっていた。反撃しようにも喉は機能せず、眠気を断ち切るほど強い魔力を持った者は誰も残ってはいなかった。

 兵士たちは、こんな少女たちがまさか、という思いで眠りの底へ引きずられていった。最後に聞いたのは、駐屯地の家屋を守る結界の装置が、ウィルの手によって壊される音だった。

 いまとなってはもはや、エヴァランを妨げるものは何物もなかった。

 エヴァランの渾身の突進に、あっけなく厩舎の壁は崩れ落ちた。もうもうと立ち上る土煙の向こうに、死臭のなかで弱り切っていたユニコーンたちは、英雄エヴァランの姿を見出した。

 それが、彼らの身体に残っていた最後の活力をかき集めた。長老は立ち上がり、目に涙を讃えた。

「ああ、まさかこんなことが本当に起こり得ようとは……!」

「涙はまだあとに。長老、まだ安全とはいえません」

 息は荒いながらも、エヴァランは冷静に諭した。けれども、長老の耳には届かなかった。

「ここに、人間の王子がやってきたのだよ。必ず助け出してみるから、どうか信じてくれ、と。でもまさか、本当にそれが叶うとは。こんなことは、もう久しくなかったのだ。いくらあかがねの髪に黄金の瞳を持つ王の血筋の言葉でも、それを信じるには、私たちはあまりにも長く絶望していたのだから」

 エヴァランはまず、いまいましい柵を長老の前のものから、順に打ち砕いていった。その間も、長老は感涙にむせびこんでいた。

「エヴァラン、エヴァランどうか聞かせておくれ。あの幼い人間の王子がお前に語った、全てのことを」

「仰せのままに、長老。でもいまは、ここを抜け出さなければ。いつ、あの邪悪な人間たちが戻ってくるのかわからないのです」

「邪悪! ああ、たしかに邪悪だ。でもそれは、いまだけの話だ。誰ももう信じはしないだろう。魔法を授かった七つの種族が、ともに手をとり合い、お互いを信じ合い、生きていた日々のことなど」

「……長老?」

「そうだ。長命なユニコーンとはいえ、そんな時代を知る者はもういない。私は託されただけだ。あの輝かしい日々を語り継ぐようにと。しかし、そんな必要はもうあるまいと思っていた。これほどの人間の所業を見てしまっては。だけど、これはどうだ。人間の王子が、我々を助けた! まるで、あの伝説の真の王のように……!」

「長老、さっきからなにを仰っているのですか?」

「エヴァラン、けっして今夜のことは忘れてはならない。希望の灯はまだ消えていなかったのかもしれぬ。なぜなら……七つの種族に平和と調和を与えていたのは、あの真の王であり、それを保つことこそが、我々と人間の王家との盟約であったのだから!」

 あまりの衝撃に、エヴァランが言葉を失っていると、ウィルが飛び込んできた。

「走って! 異変に気付いた兵たちが戻ってくる!」

 エヴァランは、すばやくユニコーンたちに言い放った。

「駆けろ!」

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