メイド坂

荒霧能混

第1話 奇妙な職場

 重い扉に、全身の体重を預けて押し開く。

 それが一日の仕事の、最初の作業。ここに来てそろそろ1カ月になるだろうか。

 私が開けた扉は使用人のための通用口。その右側には何倍も大きな両開きの門扉が鎮座し、来客を待ち構えている。

 最寄り駅からタクシーで30分ほど、その程度の距離だけど周りは驚くほど山深い。住宅街からちょっと脇道に入っただけなのに。その山の中に建つお屋敷が、今の私の職場だ。

「ここからお屋敷までが遠いんだよね」

 そうつぶやいて、私は門からお屋敷への道を歩く。交通費でタクシー代も出るというからありがたいと思ったけど、降りてからこんなに歩くなら当然かもしれない。そのうち自転車でも置きにこようかなあ。

 路面はきれいな石畳で舗装されていて、道の両側にはレンガ造りの壁が連なる。壁の高さは私の身長の倍ぐらい。道幅は自動車がなんとかすれ違えるぐらいだろうか。広い敷地のはずなのに、私の視界はレンガと石で埋め尽くされている。視線を上げれば細く切り取られた空が見えるけれども。

 なんだか枯れた水路の底を歩いてるような気分になってきて、さらにはカーブの向こうから洪水が押し寄せて来やしないかと無用な想像をしてしまう。

 私は身を震わせて背筋を走る悪寒を逃がした。余計なこと考えず急がなきゃ。

 しかしこの道、狭苦しい上にやけにクネクネと曲がっている。おかげで道の先を見通せないのがまた心細さをあおるのだ。

「ほんと、慣れないなあ」

 そう口に出して、胸を締め付けるような感覚を少しでも外に吐き出す。何度もカーブをやり過ごしていると、なんだか平衡感覚までおかしくなって、足元がふわふわしてるような気がしてくる。そろそろ宙に投げ出されるんじゃないかと思ったころ、急に視界が開ける。私の両側をふさいでいた壁が左右に90度曲がり、整えられた芝生が美しい広場に到着した。そして、広場を貫く道の先にようやく私の職場が姿を現した。

 ゴシック風の荘厳な屋敷を見て、私は毎朝のように同じ感想を持つ。

「……『ダウントン・アビー』みたい」

 そう、イメージ的にはあのドラマの大邸宅がしっくりくる。でもドラマと決定的に違うところが一つある。3階建てに幾つかの高楼を持つ、壮麗なる「アビー」とちがって、こちらのお屋敷は平屋建てなのだ。いたるところに繊細な意匠を凝らしたこのお屋敷が、なぜ1階しかないのか、その理由を私は知らない。お屋敷の姿は、正面玄関を中心に左右に広がった形。シルエットだけ見ると昔の小学校のような。

 ともかく、ようやくお屋敷の姿を確認した私はそのまま道を進み、正面玄関に近づく。だけどそこで左へターン。ハウスキーパーとして働く私は、正面玄関からではなく勝手口から出入りするからだ。

 屋敷正面に向って左端、職員用の勝手口がそこにある。ドアの前に到着し、そして入館のための儀式を執り行う。私は、ドアの近くに立つミケランジェロのダビデ像に向き直って、その透き通るように白い首筋に手を伸ばし、そっと触れた。「ピッ」という電子音。続けてダビデ像につけられたサングラスを押し上げ、その目を覗き込んだ。またもや「ピピッ」と電子音が鳴り、勝手口のドアはスッとスライドした。首筋に触れるのは指紋認証、目を覗き込むのは網膜認証だ。古めかしい外見からは想像できない電子的なシステムがこの館には張り巡らされている。それはかまわないのだけど、このふざけた開錠システムを考えるこの館の主がどういう感性の持ち主なのか、疑問を持たざるを得ないよね。

 さて、ようやく職場に入るわけなんだけど、勝手口の向こうを覗くとおかしなことになっていた。

「あら、レモネードちゃん。おはよう」

 室内からそう声をかけてきたのは、ほぼ住み込みで働いているハウスキーパー・リーダーのホージティーさん。ちなみにレモネードってのは私のことで、本来はそんなプリティでキュアキュアな名前は持ち合わせていないのだけど、ここでは本名ではなく業務上のコードネームで呼び合うことになっている。なぜかは分からないけど、雇い主のご意向なのだ。ちなみにホージティーさんの由来は「焙じ茶」だ。

「おはよう、ございます、ホージティーさん。」

 返事したものの、様子がおかしい。ホージティーさんは台所の壁に背中をぴったりとつけて、顔だけこちらに向けて挨拶してきた。ドアを入ってすぐ左の壁、なんだかそこに貼り付けられているみたいに。

「大丈夫ですか、どうかしたんですか?」

「うーん、よく分からないんだけど、トラブルみたいだねえ」

 おっとりとした話し方でそういう。もしかして怪我でもしてるのかな。私は心配になり室内に入ろうとする。

「あっ、気を付けて!」

 室内に足を踏み入れたと同時に、その声が私の耳に届く。その瞬間! 私の体を異常な感覚が襲う。体が壁の方に引っ張られるような、強い力が働いた。

「えっ! ええーっ!」

 なにこれ、なにこれ! 私はとっさに左足を上げ壁に靴底を当てる。なんとか転ばずに済んだようだけど。右足は床面、左足は壁に体重をかけて立っている。これじゃまるで――

「部屋が、傾いてるみたい」

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