この白い本にラクガキを
倉田京
内側に触れ合った放課後
学校という仕切られた世界の
私はたった一人の美術部。そして
私たちの旧校舎が取り壊されると聞いたのは、高校二年になった年の春だった。卒業と同時に工事が始まる。そう知った時、きっと自分が美術部最後の一人になると思った。
旧校舎と一緒に自分達の代で部活が終わってしまう。そのことを私たちは静かに受け止めていた。
その日も私たちは美術室で、それぞれの定位置に座り、それぞれの四角形に向き合っていた。私は胴がすっぽり入るくらいの油絵のキャンバス。
窓から差し込む夕焼けが、
そんな何気ない放課後だった。
「ねえ
口に出して話をしたことはなかったけれど、お互いの作っているものに触れ合わないという暗黙のルールが私たちの間にあった。他人に干渉されるのがあまり好きではない性格の私にとっては、それは心地よい平行線だった。同じ空間で一緒に過ごす
まさかそんな言葉が飛び出すと思っていなかった私は、驚きのあまりしばらく黙り込んでしまった。
ふと、
それは去年の冬だった。例年の倍くらい降った雪が、校舎や通学路を真っ白く染め上げていた。元気な生徒達が校門横に門番のような大きな雪だるまを作っていた。私も雪をテーマに絵を描いていた。
その日も夜にかけて天気が崩れると予報があり、私は少し早めに帰り支度を始めていた。
ドンドンドン
暗い廊下から誰かが扉を荒っぽくノックした。
「部室のストーブ壊れちゃったから。ここに
上目使いで少し息を弾ませながらその子は言った。それが
有無を言わせずいきなり乗り込んできたのに、
「うん。いいよ」
私はすぐにそう返事をした。
「ありがとー。私、
「
文学部の部室は旧校舎の二階にあって、
ちゃんと話をしたのはその時が初めてだったけれど、なぜだろう、不思議と自然に会話ができた。昔からの友達のような距離感で、お互いをすぐ呼び捨てで呼び合えるようになった。そんな子は
それから私たちは同じ教室で一緒に部活をするようになった。それはストーブの出番がほぼ無くなった今もずっと続いている。
「そうだ、私の絵に落描きして…いいよ」
私がそう言うと
「いいの?」
「いいよ…好きにして…」
今描いている絵には正直行き詰っていた。
私はいつも小さいキャンバスを選ぶ。体で抱え込んで人から隠す事ができるほどの。でも今回は少し気分を変えてみようと、背伸びをして大きめの枠に挑戦していた。とりとめもなく机に並べた布とかビンとかをひとまず描いてはみたけれど、掴みどころのない違和感があった。
キャンバスからもモチーフからも目を背ける時間がどんどん増えていた。私は少し投げやりな気分になっていた。
「じゃあ、私の小説にも
広げたノートを口元に当てて、少し恥ずかしそうに小首をかしげていた。
私たちはお互いの定位置を交換した。私は絵を描く時に使っているエプロンを
なんだか
最初のページを読んでみた。小説の主人公は高校二年の男の子。好きだった同級生の女の子を殺してしまうシーンから始まっていた。そして翌日、殺したはずの女の子が何事もなかったかのように登校してきていた。小説はそれを見た主人公が驚く場面で止まっていた。
タイトルは『未定』だった。結末が決まっていないようだったけれど、そんなに悪くない出だしだと思った。
小説には書き直しや取り消し線、そして
私は小説というものを書いたことが無かったけれど、
私は頭の中で思っていることを言葉にするのが少し苦手だった。友達と話をしていても、私が喋る時だけ二、三秒間が空いてしまう。私はこの物語にどんな未来を付け足していいのか分からなくなってしまった。
それに、
なかば頭を抱えていた時、
「できた!」
キャンバスを覗きに行ってみた。すると想像していたより大きくて思い切った
「どう?私の処女作」
「…
「ありがと…」
「最近
そう言われても、不思議と嫌な気分はしなかった。私は自分の気持ちを言い当てられるのが苦手だ。それがたとえ当たっていたとしても。いや当たっているからこそ、心の中に
「ごめんね、知ったような事言っちゃって…私も今そんな状態なんだ。
「うん、そうだと思う。
葵がゆっくりと、自分の言葉を噛みしめるように喋り始めた。
「私たちが作ってるものって…人に見てもらって…初めて完成っていうか…そういう所ある気がするんだ…」
「うん。それ、少し分かる」
「時々…作品を見てくれる誰かの事ばかり考えちゃって…先に進めない事があってさ…」
「私にもあるよ。時々じゃなくて、毎日かも…」
私もよくそこで悩んでいた。そのせいで下描きのまま放り投げてしまった絵が今まで何枚もあった。
線を引くとき、色を作る時、ふと頭に浮かぶ『これって正しいのかな』という言葉。もしかしたら変だとか間違ってるだとか言われたらどうしようと思い、心配になる。そんな事を誰が言うのかと聞かれても、はっきりとは答えられない。そういうぼんやりとした
絵を描いていると時々そんな負のループに落ちることがあった。
自分で自分の目に目隠しをしてしまい、どこへ進んでいいのか分からなくなる。
私はうまく言葉にできなかったけれど、つっかえながらも自分の心の内を
彼女は小説、私は絵。別々の方向に進んでいると思っていたけれど、実は同じような悩みを抱えていたんだなと思うと、
キャンバスに視線を戻した
「だから、息抜きだと思ってさ、私の小説もぐちゃぐちゃにしちゃって、いいよ」
私は
唐突に、喋るラクダを主人公の高校に登場させてみた。そのラクダは主人公のクラスの担任にすることにした。前の担任は産休という理由で退場させた。ラクダの名前をステファニーにした所で一気に恥ずかしさがこみ上げてきた。生まれて初めて妄想を文章にした。これを読まれるなんて、裸の自分を見られるのと同じ気がして、胸の奥がくすぐったくなった。
少し読み直してみると、前の担任は男の設定だった事に気が付いた。消しゴムをかけようとしたけれど
「できたよ」
『どれどれ』と言いながら近づいてくる
中学の頃はテニス部に入っていた。部員も沢山いた。みんなに見られている中で空振りしたり、転んで尻餅をついたりもした。でもあの時より今この時の方が断然恥ずかしかった。たった一人にしか見られていないのに、なんでこんなに心臓が走ってしまうんだろう。きっと生まれて初めて小説を書いたからだと思った。
美術室に戻った。
「好きだよ。
心臓がまた急加速した。そして、胸の中に何かが芽生える音がした。繊細な弦を指で弾くような、高音で暖かな音。
でも私は
私は言った。
「私も
「うん…」
私たちは教室の真ん中にラクガキ用のスペースを作った。ノートを置いた机をとキャンバスをそこに置いた。行き詰った時はそこへ行って、お互い好き勝手に書いたり描いたりした。
私たちは以前より話をするようになった。
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