第96話 奥底


 ずいぶん、長い夢を見た気がした。


 ——ここはどこだろう。


 ふと見ると、薫は水脈筋の奥底に横たわっていた。切り裂かれた首筋に触れてみたが、痛みは感じない。


 急に、薫は幼い頃、自分が物の怪と呼ばれたわけを知った。薫は昔から、傷の治りが早い子供だった。だから、生死の境をさまようような修行に耐えられたのだ。


 師範も薫を前にいつも厳しかったが、よく考えれば、いくら忍びといえども子供に対する鍛錬ではなかった。何度も死にそうな目にあいながら、そのたびに川の底に降りていた。

 水脈筋と呼ばれた、黄泉の淵に。

 桜子と出会う前は、このほの暗いかくり世だけが、薫の唯一いられる場所だったのだ。



***



 深い黄泉の淵で——薫は、探しものを見つけて弱くほほ笑んだ。そこに落ちていたのは、桜子が取り落とした扇だった。


 これがあったおかげで、桜子は水脈筋を開いたのだ。それと同じことが、今の薫ならできるはずだった。

 薫が触れると、扇は闇のなかで鮮やかな光を帯びた。——が、どうやらそれが限界だと気づいた。


 和人から受けた傷を癒し、この場所までたどり着くだけで、薫は力を使い果たしていた。


 和人に首を切り裂かれたとき、自分はそれで死ぬはずだったのだ。まだ生きているのは、やるべきことが残されているからだった。そしてそれをやり終えてしまったら、もう現世うつしよにいる理由もなくなるのだ。


 (それでもかまわない。僕はいびつで、異質の存在で、大きなでしかなかったけれど、桜子さんを呼び戻せるのなら)


 水脈筋の奥底に流れる川が、光彩をはなち始める。

 あまりのまぶしさに、薫は目をしかめた。


 (僕は異端でいながら人になりきれず、それでも誰かを求めずにいられなかった。撫子さんの遺言を果たそうとすることで、僕はようやく人らしく生きられた。

 それが、虚ろでしかなかった僕にとって、どれだけ救いだったか。その使命さえあれば、どこまでも強くなれるような気がしたんだ。寄る辺なく冷たい、この川底にしかいられなくても)



 ——自分がいなくなれば。


 幼い頃、そう思うたびに撫子の顔が浮かび、その涙が薫を引きとめた。

 自分に託されている使命がある。

 水神の剣の守り手——桜子を守らなければ、と。


 それも、もうすぐ終わる。


 薫の手の内で、扇は自然と開き、徐々にくれないに染まった。しかしこの場の結界を開く前に、力なくその扇は手からすべり落ちた。


 奥底が完全な静謐に包まれたのち——誰かが、常闇に落ちた扇を拾いあげた。薄れていく意識の境目で、なぜか撫子のほほ笑む顔が見えたような気がした。



 ——ありがとう、薫。



 黄泉の淵で、優しく声が響いた。

 誰の声だろう。


 やわらかな陽射しのような。

 胸の底を、あたたかく照らす声。

 いつもいつも、夢みていたはずの。


 淡い飛沫のようなしずくの玉が散って、どことも知れない場所へ流れてゆく。


 扇がひらり舞い、薫は目を閉じた。

 そして、光となって消える寸前に、桜子の名前を心のなかで呼んだ。



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