第93話 過去( 2 )——薫
薫、と優しい声で呼ばれた気がして、目を覚ましたとき——それが『水神の剣の守り手』である撫子との最初の出会いだった。
やわらかく広がる薄色の
薫は目をみはった。
自分の名前を呼んで、その人は泣いていた。
ただそれだけのことなのに、ひどく胸を衝かれた。
気づけば薫の目にも、涙があふれていた。
その人が誰かは分からなかったけれど。
でもなぜか、さけびたい衝動にかられた。
その胸にすがりついて、今まで奥底に凝り固まっていた孤独をさらけだして、吐き出してしまいたかった。
心の底から、そうしたいと思った。
それがここなら、許される気がしたのだ。
ずっと飽かず川面を眺めていたのは、この人に会うためだったのではないかと、思ったほど。
それほど——狂おしいくらい懐かしい声だった。
ただ、それだけのわずかな時間だった。
明確に言葉を交わした記憶もない。
薫が手を伸ばすと、その人の姿は闇のなかへまぎれて消えていった。代わりに、とがめるような低い声がした。
『撫子の影に触れるな』
薫は自分しかいないと思っていたため、急に呼びかけられて仰天した。
それは男の声で、顔は見えなかった。
見定める前に、その人の気配も消えて——ふと気づくと、また同じ川縁に戻っていた。
まるで、夢のなかにいるような時間だった。
鮮明な夢を、ひとりで見たのだと。薫は当惑したまま、それでも泣いていた女の人の名前を胸に刻みつけた。
そのことを師範に話すと、師範は目を見開き、やがて徐々に厳しい眼差しになった。そして風の音にも聞きまがうほど、小さな声で言った。
「これが、審神者の血か」——と。
その言葉の意味は、薫には分からなかった。ただ、今までたったひとりの理解者だと思っていた師範にさえ、その瞬間拒絶された気がした。
「お前にはいずれ、やるべき使命がある。それは撫子の娘を、その手で守ることだ。その宿命をお前は負っている」
それがお前が見た、撫子の遺言だ、とつけ加えた師範の表情は硬く、揺るぎなかった。
撫子——あの女の人の、娘。
その言葉が、薫のなかの空洞に小さな明かりを灯した。
ああ、だからあの人は泣いていたのかもしれない。
自分の子を守れなかったから。
薫はそう思った。
そして決意したのだ。
それなら僕が、あの人の子を守ろうと。
不思議な川の底で、僕の名前を呼んでくれた代わりに。
***
薫は今まで以上に、川面を眺めることが多くなった。皆、相変わらず薫を遠ざけたが、それでもかまわなかった。
川底で見た人の涙のわけを知って、より鍛錬に励むこともできた。
自分以外の誰かのためなら、薫はいくらでも強くなれる気がした。
でもときどき、恋しさに胸が裂かれそうになり、その感情を抑えられなかった。あの女の人が呼んでくれた自分の名の響きが、頭の奥にこびりついて、ずっとはなれなかった。
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