第75話 帰郷( 2 )


 ふたりがたずさえていた水筒の水をすべて飲みほすと、その頃合いを見計らい瑞彦は言った。


「先刻、『月読』から矢文を受けとった。桜子が戻ったら、五瀬川いつせがわのほとりに来るようにと」


 急な申し出に、桜子はただ言葉を失った。

 そんな通告に従えるはずがない。瑞彦も同じように考えているのか、口調は苦々しく渋面を広げている。


「でも、どうして五瀬川のほとりに」


 桜子が尋ねると、瑞彦は渋い顔をさらにしかめて言った。


「『月読』のあるじがお忍びでやって来たそうだ。ちょうど蛍火を見られる頃でもあるが、それだけではあるまい」


 ——『月読』のあるじ。


 桜子はそれを聞いて、身を固くした。

 その話が本当だとしたら、拒否するのはあまりに危険だった。逃亡したのだから追われるのは覚悟していたが、ここでいなめば多大な報復を招くことになる。


「桂木に大体の話は聞かせてもらった。薫を狙ったのが『月読』の手の者なら、ここにいることは伝わっているだろう。なんとか話をつけなければいけない」


 瑞彦を初めとした深刻な面々を眺めるうち、これが予想以上に重大な局面だということが、桜子にも次第に呑み込めた。

 今敵対しているのは『月読』のあるじであり、それはすなわちすめらぎのことなのだ。

 瑞彦は重い口を開けて言った。


「わしとて桜子を行かせたくはない。だが先方がみずからそう望むからには、誰かがそこにおもむかなければなるまい」


「僕が行きます。師範」


 そう名乗りをあげたのは薫だった。

 一同の視線が薫に集中する。

 薫はまっすぐ瑞彦を見あげて言った。


「僕が先に行ってその意向をうかがい、表立つことにならないよう話してきます」


 それを聞いて、桜子もつぶやいた。


「その目的が私なんでしょう。私も一緒に行く」


「桜子さん」


 とがめるような薫の声を無視して桜子はさらに言った。


「その方が早く話が進むでしょう。呼びだしているのは私なんだもの」


 そうと決めたらゆずらない口調だった。

 桜子は背を正すと、薫と同様、祖父を正面に見つめた。


「私が行けば、最悪の事態はまぬがれることができる。どう話が転ぶかは分からないけれど、下手に逃げるよりはいいはずだわ」

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