第72話 木陰( 1 )
「薫」
桜子が駆け寄っても、薫は相変わらず俯いたまま顔を上げようとはしなかった。
「薫、よかった——平気?」
思わず問いかけたのは、生気が失われて見えてからだ。桜子が言うと、薫はささやくような声でつぶやいた。
「ごめん」
唇の隙間から漏れでるような声。
——なんだか薫は、謝ってばかりいる。
そう思うと、行き場のない腹立ちが苦く胸に広がり、桜子はそれを抑えることができなかった。
「どうしてあんなにぼうっとしていたの。もし、あと一瞬遅かったら——」
「本当のことなんだ。あの男の言ったことは」
桜子の言葉をさえぎって、薫は面をあげた。
瞳は暗く、沈んでいるのがひと目みて分かるような顔だった。
「僕は無意識に水脈筋で、黄泉へ続く穴を広げてしまった。それが完全に開いたときの災禍は、守り手が呼ぶ嵐の比ではないんだ」
桜子は唖然として、薫の顔を見つめたまま尋ねた。
「薫が言った、本当の災厄ってそのことだったの?」
薫はうなずいた。
「そうだよ。僕は桜子さんに、水脈筋をふさいでほしかった。この地に嵐を呼び、剣に宿る大蛇を天に還すことで、水脈筋は完全にふさがれる。あそこは人が行ってはいけない場所なんだよ」
「でも、薫は知らなかったんでしょう。命を狙われる必要なんてないはずだわ」
薫は力なく首をふって言った。
「思いあたる節がまったくないわけじゃないんだ。あの男に言われてそれがはっきりした。とがめられても、何も文句は言えない」
「じゃあ、あの男の言い分が正しいと言うの。私はそんなの絶対に認めない」
桜子が息巻くと、薫は沈んだ声のままで答えた。
「反論する余地はないように思えたんだ。そもそも、誰もたどりつけない黄泉の淵へ行くことのできる僕は何なんだろう」
それを聞いて、桜子はすっと背筋が寒くなるのを感じた。薫はあの時、死を覚悟したのだ。死んでもかまわないと思ったのだ。
薫は遠くを見つめたまま言った。
「桜子さんが剣を呼ぶことで、この地に嵐を招くことを良しとしないなら、僕がいなくなるのが一番いいのかもしれない」
それを聞いて、桜子も黙っていられなくなった。
そんなことを平気で言う薫のことが信じられなかった。
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