第64話 葦原( 1 )


 気を失ったのは、ほんのわずかな時間のようだった。次に薄くまぶたを開けた時、しかし桜子は荒屋あばらやとは別の場所にいた。

 遠くから吹く風に、前髪をさらわれる。表にいることが分かって濁りがちな意識を外にむけると、忍冬すいかずらの群生が近く目に映った。


「気分はどう、桜子」


 さっきと同じ、優の声がする。

 体のなかの重さは消えていた。それは確かに有り難いことだったが、意識が戻った桜子は不審に思わずにはいられなかった。


「私に何をしたの。あの椀には、何が入っていたの」



 水のにおいを感じて身を起こすと小さな池があり、自生した沢鷹なまいの花をもてあそんでいる優と目があった。



「滋養の薬を混ぜたのは認めるよ。強制的に眠りにおちた方がいい場合もある。前より体が軽くなっただろう」


 桜子は不機嫌な調子をくずさなかった。


「ここはどこ。私を一体どこに連れてきたの」



 昼間だというのに湿地は薄暗く、沢鷹のほかにも吾亦紅われもこうむぐらといった草木が生い茂っている。木々の合間から、丘に続く葦原あしはらが見渡せた。薄く雲がかかっているせいか水辺にいるためか、風が吹くと途端に涼しくなった。

 桜子の問いに、優はゆっくりと応えた。


「この場所なら、力を解いても桜子に及ぶ危害は少なくてすむ。長い時間をかけてつくった結界があるから、『月読』のやつらも手出しすることはできない」


 ひとつひとつの言葉に、優は力を込めた。


「『水神の剣』と桜子は繋がっていると、前に話しただろう。ここで剣を呼べば、それが力をはなつ鍵になる。

 剣は桜子に呼ばれることで雷を起こし、その矛先は水脈みおの大蛇が最初に呼び覚まされた場所へ向かう」


「つまりあの剣は、お宮に封印されているのでしょう。今はたとえ私と繋がっていても、あの場所から動かしてはいけないのよ。

 お宮は清浄な場だから、自然とそうすることができるんだわ」


 剣を奪われたら駄目だと、祖母は言っていた。そんなことをすれば、水脈の大蛇の怒りを買うことになると。

 撫子が生前、『水神の剣』を前に舞ったのも、あの境内のなかに限られていた。それは、そうしなければ暴走する力が秘められていたからだ。母は大蛇の神霊を鎮めることで、その力の根源を剣に収めたのだ。自分の身が削られると知っていても。

 そうすることで、水脈の大蛇の怒りが極力里へ向かっていかないように。


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