第46話 南庭( 2 )


 ——薫。薫は一体どうしているだろう。


 風にふかれながら、桜子が思いを馳せるのはそのことだった。あれからもう幾日も経っている。

 桜の木の下で会うと約束したのに、それを果たせなかったことが、いつも気がかりだった。せめてここにいることを知らせることができればと思うのだが、薫の行方ももう分からない。


 どうやって抜けだそうか、ひそかに桜子は思いをめぐらせた。人の気配が乏しいとはいえ、簡単に忍び出ることはできないだろう。伊織の目を盗んでいかなければいけない。世話をしてくれたことに感謝はしていたが、成り行きに任せてここに居続けるつもりはなかった。


 桜子が「水神の剣」を振るったのは、薫の言葉を信じたからなのだ。『月読』が仕えるあるじのためではない。


 ——熱は下がった。でも、まだ体のなかにしこりがある。


 その違和感は体調が快復した分、前よりも明らかに感じることができた。胸を押さえた桜子を、伊織は気にかけた。


「守り手の力は、人の体と相容れないものです。慣れるのにしばらく時間がかかるでしょう」


「人が負ってはいけないものだからよ。長く生きられないのはそのせいでしょう」


 桜子が言い返すと、伊織は優しく言った。


「あなたの体はすでに剣と繋がり、神霊と同じものが宿っている。消耗が進む前に制御するすべを学ばれるといい」


「そんな——どうやって」


 つぶやいた桜子に、伊織ははっきりと告げた。


なばりの技は力を開かせた。それと同じことが、統制する際にも可能なのです。あなたはただ無心になるだけでいい。剣を振るう前に、そう薫に教えられたように」


 そこで薫の名前が出てくると思わなかった桜子は、ハッとして思わず唇を引き結んだ。


「薫を知っているの」


「どうして私が知らないと思うのですか? 優のことを知っているのだから、彼の息子について知っていても不思議はないでしょう」


「でも薫が私に言ったことまで、どうして」


 そこで桜子は言葉を途切らせた。

 もしかして——和人に見られていたのだろうか。薫と話したことを、和人は知っていた。その時は疑いもせず聞き流していたが、本当は不審に思うべきだったのだ。

 声をつまらせた桜子に伊織は言った。


「薫がいなければあなたは剣を取らなかった。その点では彼に感謝するべきなのでしょう」


 声に含むものを感じて桜子はつぶやいた。


「あなたは、薫の何を知っているの」


 思えば分からないことばかりだった。薫に関して、桜子はその正体をほとんど知らないのだ。それだけに、まるでなすような口振りが妙に気になった。伊織は、その質問には答えなかった。


「ずいぶん風が出てきましたね。体が冷えるといけない」


 結局それで会話は打ち切られた。

 釈然としないものを抱えたまま、桜子は伊織と連れだちなかへ戻るしかなかった。たとえ伊織に何を言われても、留まり続けるわけにはいかないのだ。長くいればいるほど、隙をとらえるのも難しくなっていく。



 ——まったくもう。後のことは任せてくれればいいって言ったくせに。


 心のなかで薫をくさしたが、それでも桜子の心は晴れなかった。



 ——なんとかしなければ。


 そう思い、桜子は再び胸元を握りしめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る