役どころ

nobuotto

第1話

「お前にしかできない」

 ボスのこの一言をミスターXはずっと待っていた。

 運び屋の世界は変わった。ブツを飲み込んで運ぶ、命知らずの体育会系が重宝された時代から専門性と独創性、そして個性が必要な時代になった。

 トップに君臨する運び屋は、ブツではなく情報を運ぶ産業スパイである。組織同期組のミスターKは歯科技工士出身だった。設計図を埋め込んだマイクロチップを、特殊加工した差し歯に挿入して運ぶ。

 もうひとりの同期のミスMは「普通のおばさん」になるという能力を持っていた。二重底に隠すという一番ベタな手口で、空港でも港でも保安検査を難なくすり抜ける。組織が用意した偽造パスポートの「普通のおばさん」に完璧に変装する。

 ミスターXも、この道十年のベテランと呼ばれていた。鈍感力が人一倍あり、腹の底が座っているという性格的な適性があった。しかし、それ以外はなんら特技のない運び屋であった。

 年に数回お呼びがかかる不定期な仕事なので定職にはつけない。トップクラスであれば、十年も働けば一生暮らせるだけの貯蓄もできるが、Xクラスだと将来の保証はない。それも不満だが、Kのような産業スパイ、映画の主人公を夢見て組織に入ったのに、急な海外出張で疲れ切っているサラリーマン、小銭を手にして浮かれた青年実業家と映画のエキストラ程度の仕事ばかりである。このままエキストラ人生で終わるかと思うと虚しい気持ちになる。

 だから、「お前にしかできない」のボスの言葉に心が踊った。

 とある国の研究所まで薬品の化学式を運ぶのが今回のミッションである。Kが産業スパイ映画の主人公であれば、主人公に極秘情報を渡すセリフ付きの役者くらいには昇格した気分だった。

 仕込み作業として大手会社配下の病院に通い、特殊レーザで体に化学式を焼かれた。顔からつま先まで体中をチクチクとされた。特殊な入れ墨かと思ったが、何も残っていない。化学式と同様に画期的な技術に違いない。

 組織が用意したパスポートを持って空港に行った。違法物は持っていないので気楽なものである。こんな気楽な仕事が「お前にしかできない」上に、報酬も高いのである。

「主人公への階段を登り始めたんだ」

 ミスターKは、高揚する気分を抑えきれなかった。

 しかし、空港ですぐに警察に捕まってしまった。まるで狙い打ちされたかのように捕まった。保安検察室で威圧的な警官に質問されたが、何も出てくるはずもないので堂々と振るまえる。

「どうも時間を取らせて済みませんでした。あなたを名指しした通報がありまして、それでこちらに来て頂いたのですが。お詫びと言ってはなんですが、セイロンの紅茶と、そこの免税店で売っているフランスの名菓でもおあがりください」

 警官も下手に出ている。

「誰かに恨まれているということはありますか」

 すぐにでも部屋を出たかったが、それも不自然なのでもう少し付き合うことにした。

「いや、全く心当たりはないですね」

 香り良い上品な紅茶であった。ひとつひとつ丁寧に包装されているお菓子を食べる。甘さ控えめの風味が心地よい。

 その時、Xは体中がむず痒くなるのを感じた。Xは極度のナッツアレルギーであった。お菓子の成分表は確認していたが、微量だと書かれていない場合もあり、また製造工程の中で混入することもある。

「やられた。化学式の正体はこれか」

 Xは思わず手の甲を掻きむしった。すると赤い水ぶくれの式が浮き出てきた。「お前にしかできない」の理由もわかった。これは確かに凄い技術だ。しかし感心している場合ではない。とにかくここを切り抜けないといけない。

 さりげなくポケットに手を入れ「ごちそうさま。じゃあ私は」と席を立ち上がろうとしたが警官に両肩を抑えられた。警官は口の周りを凝視している。彼の肩越しから壁掛けの鏡が見えた。そこには口の周りから頬にかけて赤い式が浮き出ているXが写っている。

 密告者はKに違いない。Xだけしかできないという情報を入手して潰しにかかったのだろう。それにしてもKは技術の詳細を知らないはずだ。ここまでKの狙い通りに展開するなんてことがあるのだろうか。

 Xはその理由がなんとなく分かり、思わずつぶやいた。

「やっぱり、あいつが主人公で、俺は脇役止まりか」

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