絵師幸之助

nobuotto

海坊主

第1話 生贄になった幸之助

 村の漁師が教えてくれた「海津宮」の壁の引っかき傷は、どれも尺超えの長さで深い。とても人間の仕業ではない。

「こりゃあ、本当に海坊主とやらが削ったに違いない」

 幸之助はほくそ笑んだ。

 師匠の使いで江戸を出て、京への道すがら魑魅魍魎を探しつづける旅。

 おっさんの与太話、おばちゃんの井戸端話しばかりだったが、やっと本物に出会えそうである。

 しかし、川崎宿を越えた漁村。旅の輩が泊まるところもない。村人に教えてもらったお宮さんは、ちょうど人ひとり寝起きできる広さだったので、ここを仮の宿に決めた。

 朝方から外が騒がしい。お宮さんを寝床のしていることがばれたら追い出されてしまう。鳥のさえずりだけ聞こえるまで息を潜め、誰もいないことを確かめて祠から出てみると、そこには鯛が1匹、干物と握り飯が山盛り、その上に酒が入った徳利までが置いてあった。豊漁を願ってのお供え物である。寝床と合わせて豪勢な飯までついてきた。

「さてさてこれは嬉しいこった。だが、お供え物なんど食べたらバチがあたる」

 目の前にあるご馳走をじっと眺めていたが、ふとある事に気がついた。

「しかし、この旅は魑魅魍魎を見つける旅。バチがあたるにこしたことはない」

「ありがたや、ありがたや」と手を合わせ、幸之助はご馳走をほうばるのであった。

 腹も満たされほろ酔い気分にもなった幸之助は山を降りて海岸に行った。夏の暑さの手前の穏やかなお日様が気持ちよく輝いている。

 しかし、天気は良いのに海は荒れていた。恨めしそうに漁師達は海を見ている。

「奇妙な景色だね。こんなに良い天気だというのに海はうねっている」 

 輿入れの矢立から筆を抜いて手帖に海の景色を描き始めた。

「絵描きさんは呑気でいいねえ。こちとら漁にでれず、干物になっちまうよ」

 漁師の機嫌はすこぶる悪い。

「先だって聞いた海坊主というのは、こんな時にでるんですかい」

「さあねえ。俺は会ったことも見たこともないからな。夕暮れらしいよ。日が半分おちたころ海が妙に静かになると出てくるってよ」

「出てくるっていうのは、こう海の中から浮かび上がってくるとか」

「そんなんじゃねえ。海の中から、海坊主の手がどんどん現れて船ごと海に持って行かれるらしいぜ」

「へえ。その海坊主を見たって人に会わせてくれないかい」

「そんな奴いるわけねえだろう。海坊主を見たときにはもうあの世行きさ。けど海が荒れてんのは海坊主でなくて海神さまが機嫌をそこねたからだよ」

「あのお山の祠にいる神様かい」

「まあな。それから、ほら、向こうの島に海神さまのもうひとつのお宮があってな。山のお宮と島のお宮に守られて、ここは昔から豊漁で生活に困ったことない。だが、海神さまを怒らしたら、そりゃあ大変なことになる」

 これはまずいことになったと幸之助は思った。自分一人にバチが当たる分にはいいが、どうも村人まで巻き込んでしまったようである。海坊主には心惹かれるが、村をでることにしようとお宮にもどって荷をまとめたところで幸之助は捕まってしまった。

 海岸の漁師が幸之助を怪しんで仲間とととも付けてきた。そして、お宮に潜り込んだうえにお供えものまで食べてしまったことが露見してしまったのであった。

 村人の怒りはすさまじいものであった。

 幸之助はすぐさまぐるぐるまきにされ、小船に投げ込まれ、海に放り出され、海神様への生贄となった。

 見た目ほど海は荒れてはいなかった。明け方は漁にも出れないほどの大波だったが、海神様の怒りも少し収まったのかもしれない。

 それより日差しがきつくて喉が乾いてしょうがない。目を開けていることもできない。海神様の生贄になる前に干からびて死んでしまいそうであった。

「はあ。困ったことになった。絵一枚も描けないで死んでしまうのか。お師匠様に会わせる顔もない。まあ、死んだら会わせる顔がそもそもないか」

 江戸絵草紙のお師匠様に弟子入りした幸之助は、絵の才能を認められ若くして次期後継者の一人に抜擢された。お師匠様の得意は妖怪者の絵草紙。お師匠様の兄弟子円山様へ手紙を届けるついでに京都まで魑魅魍魎の世界の絵を描く修業を命じられた。お師匠様の妖怪絵は不気味な子供だましの絵ではなく、一度見たら一生心の底に残る深さがあった。それが何か幸之助がわからない。わからないから、お師匠様の言うとおり修行の旅に出たのであった。

「海坊主とか、海神様とやらの姿を一度拝んでから、せめてあの世で絵を仕上げることができればなあ」

 幸之助の願いが叶った。

 波が止まった。船はピタリとも動かない。縄がひとりでにほぐれていった。黒雲がどこからともなく現れ、日を隠し、夜になった。

「海坊主がでる」

 ここぞとばかり幸之助は手帖と筆をとりだした。しかし怖さで手先が慄えて筆も手帖も場所が定まらない。

 幸之助は人一倍の怖がりであった。

 絵草紙で妖怪絵も描いてはいるが実は臆病な性分であった。それもお師匠様に見透かされ修業の旅にだされたのであろう。

 海の中から手が出てきて船べりを掴んだ。

「海坊主」

 と思った瞬間に幸之助はその手を踏みつけていた。手は海に中に潜って行った。

 また、反対側の船べりに手が現れた。海坊主を描かなくてはいけないと頭は考え「出てこい」と大きな声で叫んでも、身体は幸之助の気持ちに素直に従って手が現れると踏みつけてしまうのであった。

 手が現れては踏みつけ、蹴散らし続けた。

 しばらく手は現れなかった。

「海坊主を逃してしまったか」と後悔しつつほっとする幸之助であった。

「ああ、いい加減にしてくれない。ほんとアッタマ来た」

 空から声が聞こえたかと思うと大きな波が押し寄せてきた。その中に光り輝くものがいた。波は幸之助の船まで押し寄せ、ぴたりと止まると波の中から女性が現れた。

「海坊主」と思わず叫んだが、それは「天女」であった。色鮮やかな衣を身にまとった面長の涼しい顔立ちをした天女が現れ船に乗ってきた。

「あなた、どれだけ私の手を踏みつければ気が済むの」

「海坊主さん、でしょうか」

「はああ。どこをどう見れば私が海坊主なのよ。ええい、そんなことより、とにかく行くわよ」

 天女は幸之助を抱え込み海に飛び込んだ。

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