私と椅子取りゲーム

飛田進

私と椅子取りゲーム

私と椅子取りゲーム


誰しも小さい頃、「椅子取りゲーム」をした経験があると思う。だが成長した後は?読者諸君はしていないと答えるであろう、しかし私はこうはっきり断言できる。「いや、あなたがたは連日椅子取りゲームをしているよ、僕だってそうさ。」


なにも私は人生は他人を蹴落とすポストの奪い合いであるとか、幸福になる人間がいれば必ず誰かは不幸になるとか、そんな陳腐なことを言いたいのではない。

私が言わんとするのは、都市部の満員電車の中での休息をかけた椅子取りゲームである。


まず乗車したら、まだ車内の移動がある程度可能な段階で、眠っている人とそうでない人とを選別する。眠っている人間は終点まで乗る可能性が高いからである。

このような場合の椅子取りゲームでは、最初のポジショニングが生死を分ける。また大きく運に左右されることも特筆すべきである。目の前の勝者が起きているからといって、途中下車するとは限らないのだ。

空いている中で最良と思われる位置を確保するのはゲームの第一歩で、初動の次に重要なのが隣に立っている挑戦者との不可視の勢力争い、即ちどういうことかというと、全ての席の前に一人ずつ立っている場合、ある一点が空いた時、三人が座るチャンスを得ることになる。真正面、それにその両脇に立つ人物である。

目の前が空いたところで必ず座れるとは限らないのがこのゲームの難しいところで、降車する人物が荷物整理のため立ち上がって僅かにその場にとどまったりなんかしたりすると、脇に席を掠め取られてしまう、なんてことが起きうる。

それを防ぐために、気持ちから自分を大きく見せ、鞄を脇に置いてみたり、軽く左右に揺れてみたりして、相手の、言わば"精神的可動域"を削ることが大切なのである。逆に自分が側面にいる時は、一瞬の隙を逃さぬよう常に気を張っている必要がある。

また側面の場合、降車する人物が左右どちらのドアに向かうかも重要で(降りるドア側に立っていた場合降りる人物の体に阻まれて座りにくい)、そういう意味では長椅子の中央より端にポジショニングした方が戦略を立てやすい(私の見たところでは、わざわざ遠い位置のドアへ向かう物好きは少ないようである)。

この勢力争いは勝利するために不可欠であり、熟達したプレイヤーが隣なら、読者諸君もライバルとのせめぎ合いを実感として感じる筈である。


ところで、我々は幼稚園児からすればいい歳の大人である。よって、ある程度やり方にモラルというものも勘案しなければなるまい。

先に書いた"精神的可動域"も、相手に相応の社会的良識があることを前提に成り立つものである。

席を確保したいからといって、あまりそれとわかるように強引に動いたり、席を取る以外の理由付けができないような行いは不粋というものだ。あくまで、「あ、座れる状況なんで座っちゃいました」という謙虚な態度が必要であり、だからこそ敗者も、敗北を不運として受け入れられるのである。

これができないと、席を得たとしても周囲からの軽蔑と憎悪の視線に晒されることになり気まずい思いをすることになる。心の貧しい人間ですと宣伝して回るようなものである。

その意味ではテニスと並んで紳士的なスポーツといえよう。


このようにあらゆる努力をしてもすでに述べたように、運のない日というのも当然ながら経験することになる。前三席の誰も途中下車しなければ全ておじゃんである。熟睡していたと思ったら目的地でぴったり起床(厳密には"起席")し降りるような、ブラフをかましてくる驚異的体内時計の持ち主もいたりする。特に通勤時間は寝ている人が多いため判断が難しい。立っている人々は次々下車するのに、座っている者に限って全員最後まで乗っているような不快な現象もしばしば発生する。

ビギナー諸君には、不運を不運と受け入れる広い心をもって臨んで欲しい。


さて、運と努力が成就した場合、つまり運良く座れた場合の身の処し方にも触れておこう。基本的には読書なり、ソシャゲに興じるなり好きに振舞って構わないのだが、私は特に、睡眠を取ることを推奨したい。安定した睡眠は椅子に座っていなければ不可能である(睡眠自体は立ちながらでも可能だが、私はそれで何度も顔を手摺や壁に打ちつけた)。

折角の幸運を、人間の三大欲求の一翼を成す睡眠に費やさない理由がどこにあるだろう。寝方は人それぞれだが、私の場合、席に座って、周囲を一瞥し、優越感と幸福感に浸りつつゆっくりと目を閉じる。これでこそ長椅子の脇の仕切りにもたれかかるなどという、勝負から逃避して偽りの安逸を得る卑劣な行いをしなかった甲斐があるというものである。


ここまで読んだ諸君の中には、何故こんなくだらないことに本気になっているのだろう、と疑問を持った者もあろう。その回答をもって締めくくりたいと思う。

諸君はくだらないことだというが、小さい喜びをあらゆることに感じ、それを希求することこそ、人生の活力源ではないかと私は考えている。

なにもこれは椅子取りに限らない。ポケットに100円入っていたとか、アイスが当たりだったとか、日常の中のごく小さな喜びたちである。

確かに実利的観点で見れば取るに足らないことである。しかし、むしろ巨大な幸福でしか喜べない人ほど不幸ではないだろうか。

宝くじに当たる確率が果たしてどれだけであるのか、それよりも、もっと簡単なことで幸せを感じられる、鋭敏な感覚を身につけるべきだ。そうすることで広がる世界もあろう。これは薄味の判る人間の方が様々な料理を楽しめるのに似ている。薄味が判って初めて濃い味付けの良さも見えてくる。

料理も人生も、視野を広く持ち、それぞれの楽しみ方ができる者こそ、通と呼ばれるのである。

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