Bright

須藤未森

***


 風の音がかすかに聞こえた。私は布団のなかでもぞもぞと身体をまるめた。足元に秋のしずかな冷えこみが折り重なっている。ひらいたばかりのこの目に、白い陽ざしがカーテン越しに降り注ぐ。部屋の窓がひとつ、半分ほど開いていることに私は気づいた。たぶん、彼が開けたまま出ていったんだろう。なぜ開けたかは、知らない。気だるい頭をあげて目覚まし時計をみると午前八時過ぎだった。休日に起きるにはまだ早いけれど居間にでてみる。案の定、誰もいない。洗面所にも、玄関にも。フローリングのそっけない冷たさが足に伝う。私はいつものようにぼさぼさの髪をかきあげた。外は晴れているのに、わずかに雨水のような甘い匂いがした。

 身支度を整えて、ベランダに出る。風がつよくて、電線が上下にしなっていた。じょうろに水を入れ、まず育てているリンドウに水をやる。リンドウは彼がどこかでもらってきた種を私が鉢に植えたものだ。今年の株は二代目になるけれど、去年に負けず劣らず凛と花をつけた。盛りの頃は過ぎたけれど、青い宝石のような気高い色は失われていない。生命の奥底にわだかまる強かさを析出させたかのような、そんな気高さ。

「そんなもの育ててどうするんだよ」

 彼にはそういうふうに言われた。興味があるのかないのか、よくわからない声音で。

「見ているのが楽しいから」

「ふうん」

「前に近所の野良猫を見てるのが楽しいって言ってたでしょ」

「言ったけど」

「それとおんなじ」

「動かないのはつまんないだろ」

「でも、こう静かなのみてると落ち着く」

「癒し効果、みたいなやつか」

 彼は、否定はしないけれど、わからないといった表情でコーヒーをすすった。そういうのじゃない、って私は言おうとしたけれど、やめた。すべてを伝えることが誰かと一緒にいる理由にはならないから。私は黙って、彼と似た所作で紅茶をすすった。最後に彼はこうぽつりと言った。

「なんかうまく言えないけど。この鉢植え、もらってきてよかった」

 キッチンに戻って今日もコン、コンと卵を割る。毎朝の卵料理は実家暮らしだった頃からの習慣だ。双子の卵だといいな。ときどき――今日も思ったりもするけれど、一度しか遭遇したことはない。あのときはとてもびっくりして、一日がすごく特別になる予感がしたものだった。黄身がこの指の先に、ふたつあるというだけで。

 今日割った卵はつるんとした白身にふっくらとした黄身がひとつ乗っていただけだった。でも、それでも満足。

 彼はいつ帰ってくるだろう。私はオムレツを焼きながらぼんやり考える。オーブントースターに食パンを放り込み、昨日の残りのサラダとりんごがあったことを思い出す。それからもう一度、彼はどこに行ったんだろうと考えながら、フライパンの上のオムレツをひっくり返す。

 こうして彼のことを思うのがまるで日常の一部になっていることに、私はたまにびっくりする。掃除をしたり、ごはんを食べたり、本を読んだり。そういう事がらとほとんど変わらない。たいして私に構ってくれない人なのに、私はきちんと彼のことを考える時間を日常に組み込んでいる。だからといって、彼にもっと私を見てほしいとか、もっとこうしてほしいとか……そういった気持ちの裏返し、は全然ない。彼のことはどうであってもいい――たとえば双子卵の奇跡をうっすら願うみたいに、あるいは今日のリンドウやシュウメイギクやパンジーの咲き具合を見るのと同じように、どんな結果が待っていようが構わない。今日の天気が晴れでも、雨でも、雪でも、霧でもいいと感じるのに似ている。大切にしたいひとであるはずなのに、大きな期待はしていないで、ただ漠然といつの間にか意味もなく考え込んでいる。

 そういえば、昨日布団のなかで彼はじっと私を見て、神妙な、それでいてよく目をこらすと少しばつの悪そうな顔をしていた。食パンをかじりながら、テレビをつけ、私は昨夜の薄暗い部屋を思い出す。あの、わずかに幼気な表情。彼は同じ顔をしてかつてはこう聞いたものだった。

「どうしてずっといてくれるの」

 それは当然といえば当然の質問なのかもしれない。彼は気づくとすぐ小鳥みたいにふっとどこかへ行ってしまうし――彼は放浪だと言っていてそれが格好つけてるみたいでおかしかった――、その先で治らない癖のように色んな女の子と遊んでいることもままある。この部屋に戻ってこない日や、連絡のない日だっていくらも。それでもやたら懐いて離れない私を彼はいつからか不思議に思っているらしい。もしかしたら不気味とまで思っているかもしれないけれど。

「わかんない」

 あのとき、私はそう返事をした。あまり迷うことなく答えた、気がする。そしたら彼はいつになく顔を私の胸にうずめて、それから軽く鎖骨を噛んだ。うっすらと彼の身体にしみついた雨のような匂いがした。いまも変わらない、独特の甘くて気だるい匂い。寂しいの? って私は訊こうかなと思ったけどやめた。彼がどんな返事をしても、この人は寂しい人だって私が思うのに変わりはないと変な確信と自信があった。やがて、彼はゆっくりと私の背中に手を這わせた。これもいまと変わらない。きっと今日そういう状況になったとしても、彼はそうやって私に触れはじめるだろう。

 つけたばかりのテレビが緊急地震速報を伝えた。耳にぐわりと攻撃してくるような甲高い音で地震を告げる。震度は6弱。慌ててテーブルの下にもぐってみたけれど、思っていたほど揺れはしなかった。画面に表示された震源地を見てみるとこの部屋からずいぶん遠い場所だった。

「大丈夫かな」

 私はつぶやいた。それから、きっと大丈夫だろうと思った。手元の紅茶はまだ湯気をあげている。チュンチュンとスズメがせわしなく鳴きはじめた。今日は彼から連絡が来るだろうか。私は、リモコンを手にとり、そっとテレビの電源を切った。

 

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