男は脱出できるのか32
千粁
男は脱出できるのか
俺は体の芯から恐怖心を呼び起こされるような白いワンピースの少女に向き直った。
「お、お前、エマだよな!?」
「そう、あたしはエマ。平川エマよ。あんたの彼女の平川エマ」
確かにエマの声だ。
どうしてエマが豹変したのか分らないが、烏丸がさっき言っていたようにあやしい粉が原因かもしれない。
深く考えずに渡しちゃったのがいけなかったのか。
というかなんだったんだよあの粉は。
俺はエマから放たれる異様な気配に彼女から目が離せなかった。
彼女の周囲ではすでに鉛筆の数が百本以上にも増えている。
すると王様を護衛していた兵士姿の烏丸六人が腰から剣を抜き放ちエマに突進。
「あやしい奴め! 王には危害を加えさせぬぞ!」
一人目の兵士が宙に浮くエマに飛びかかり剣を振ったが、剣が届く前にエマの周囲に浮いていた鉛筆が全て兵士目がけて撃ち出され、鎧を尽きぬけて鉛筆が一人目の兵士の身体に深々と突き刺さった。
その兵士は血を流しながら床に倒れて動かなくなった。
俺は急いで兵士にいのちの水を使い傷を癒す。
「おのれ化け物がっ!」
二人目の兵士も剣を振ろうとしたが、その前にエマの髪が生き物のようにうねり兵士を弾き飛ばして意識を失わせた。
残りの兵士四人はその光景を見て後ずさる。
髪を自由に動かせるのか!?
「おいやめろよエマっ!」
「わかってる。わかってるよユウ。あたしとあんたの仲を邪魔する奴らは皆殺しにしなきゃだよね。そうよ。そうよね。そうしないとユウが何処か遠くへ行っちゃう気がするから。だから早く小学校に行かないと……」
「な、何を言ってるんだ?」
「何って今あんたと電話してるの。遠いから。あんたは遠くにいるから。あたしはあの時引っ越してあんたと離れちゃったでしょ? だからあんたと電話してるの。明日から夏休みだねユウ。コウシロウやアユと一緒に中学へ行けるのは嬉しいよね」
「電話? 夏休み? 中学校?」
だめだ。エマの言っている事は支離滅裂だ。
本当にどうしたって言うんだ。
そもそもここにいるエマはゲームキャラじゃなかったのかよ。
今迄は解像度が荒かったのに今はリアルな輪郭になってしまってるし。
俺は豹変したエマの言動に戸惑っていると、さっき謁見の間に入ってきたアユが魔法を使って火の玉を出しエマ目がけて放つ。
しかしエマは黒い髪を自由自在に動かし火の玉さえも弾いてしまう。
酒場のマスターが冷や汗をかきながら言った。
「おいおい兄ちゃんよ。なんだこの状況は! 俺達みんなでお前がどんな願い事をしたのか気になって、冷やかしにきたらおかしな女が宙に浮いてるじゃねーか!」
「よくそんなくだらない理由でここまで来れたよ! 城の衛兵は何やってんだよ!」
「おいおい兄ちゃんよ。酒場のマスターを甘く見ちゃいけねえぜ。俺は昔この国の騎士団長だったんだぜ」
「まじかよ!」
顔は烏丸だけどな。
「その恐ろしい女はどうしたっていうんだ?」
「お、俺だってどうしてエマがこうなったのかわけが分らないんだよ!」
コウシロウA、B、D、F、Eの五人が剣を抜いてエマに襲いかかった。
しかし蠢く髪によって五人は弾かれて石壁に衝突して動かなくなる。
ドレス姿のヒロミが倒れてしまったコウシロウ達に回復魔法をかけているようだ。
彼らの傷がみるみる癒されていく。
『コウシロウCは状態異常恐怖になった。コウシロウCは状態異常ヘタレになった。コウシロウCは状態異常臆病になった。コウシロウCは震えながら様子を見ている』
そのメッセージウインドウが表示された直後、俺の耳元を何かが通り過ぎた。
それとほぼ同時に背後の床石が砕ける音がした。
音のした床を見ると先ほどエマの周囲に浮いていた鉛筆が床に突き刺さり、大理石の硬質な床石が砕けていた。
ええっ!? これ鉛筆だよね!? 床石砕けてるんですけど!?
さっきの兵士の鎧を突き抜けた威力といい銃の弾丸みたいだな!
そりゃあ、あんなのが身体に命中したらさっきの兵士のように穴が空くよな。
エマが口角をあげて不気味な笑みを浮かべる。
「ユウ。あたしを好きなんでしょ? 好きよね? 好きに違いないわ! だから二人で暮らしましょう? そして結婚して沢山子供を産んで幸せに暮らすの」
「ま、待てよエマ。何を言い出すんだ? 俺とお前は「恋人同士よね?」
「え!? でもお前ってコウシロウと付き合ってたんじゃないのか?」
「ええ、そうね。付き合ってた。でも、それは全てあんたのためよ」
「俺の為?」
「そうよ。あたしがコウシロウと付き合えば、あんたはアユと仲良くできるでしょ? だからあたしはあんたを好きな気持ちをずっと抑え続けて、コウシロウを好きな振りまでしてあげてたの。親に無理を言って引っ越すのを止めたのもあんたのため! みんなで一緒に学校通ったほうがあんたが喜ぶとおもって」
エマが今言った過去は俺が改変した過去だよな。
「全部俺の為に」
「そう。全部全部全部あんたの為! あの時もあの時もあの時もあの時も全部あんたの為にやったのよ」
「どうしてそこまでしてくれるんだよ」
「ああ、そうよね。今のあんたはあたしと過ごした現実の日々を忘れているんだったわね」
「え? 現実の日々? それって……いつの事だ?」
「あんたの持ってる記憶の箱を開ければ全てを思い出すはずよ」
きおくの箱?
俺は急いで鞄からきおくの箱を取り出した。
これを開ければエマが言うように全て思い出せるのか?
でも開け方がわからないな。
「あたしがあげた花を箱にくっつけてみて」
俺は言われるがままに桃色の花をきおくの箱にくっつけた。
するとパズルのような細工がカタカタと組み変わり自動でフタが開いた。
箱の中にはなんと鍵穴のついた一回り小さい黒い箱が入っていた。
「今度はまほうの鍵を使うのよ」
俺はまほうの鍵を取り出し黒い箱の鍵穴に差し込むとパカリとフタが開く。
その中には見覚えのある指輪が入っていた。
あれ? この指輪って俺が持っているものと同じちかいの指輪だ。
俺は鞄の中に入れておいた指輪を取り出し、箱の中に入っていた指輪と比べてみた。
やっぱり同じデザインの指輪だ。
ただサイズがちがう。
男性用と女性用だろう。
指輪の内側に何か文字が刻まれているのに気付く。
少しサイズの小さい指輪にはEとHのアルファベット。
それよりも少しサイズの大きい男性用と思われる指輪には……!
俺の名前のイニシャルが刻まれていた。
それを見た瞬間に激しい頭痛に襲われる。
その時俺の記憶が全て蘇った。
コウシロウとアユが死んだ後、大学を卒業して就職した俺の記憶。
それから俺とエマは恋人関係になったという記憶。
さらに彼女と結婚の約束をしていた記憶も全部思い出した。
どうしてこんな大事な事を俺は今迄忘れていたんだ!?
「エ、エマ……」
「全部思い出したようね。それが本当のあなたの記憶よ」
「俺の? 本当の記憶?」
「そういえばあんたは小学生の時からずっとアユの事が好きだったよね」
「いきなり何を言い出すんだよ。俺が好きなのは……」
なぜだか俺はその言葉の続きを言う事ができなかった。
エマの長い髪の隙間から赤く光る不気味な瞳が覗いている。
「だからあたしはあの時から全てを壊す事にした。あんたを悩ませる全てを壊し、あんたがあたしを愛するように仕向けたの」
「仕向けたって何を」
「アユの精神を少しずつ不安定にしていって、エリカをいじめるように宇佐木を誘導した」
え? 意味がわからない。
エマは何を言っているんだよ。
「それからコウシロウを車の前に突き飛ばしてアユの心を壊した」
コウシロウを突き飛ばした?
アユが壊れたのもエマのせい?
「あんたにヒロミを近づけて、アユの精神にとどめをさして自殺に追い込んだ……全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部! あんたの為よ! アハハハハハハハハハハハハハ!」
え? アユを自殺に追い込んだ?
エマが二人を殺したっていうのかよ!
「ど、どうしてそんな事を」
「どうして? どうしてそんな分りきった事を聞くの? 決まってるじゃない。あたしはユウを好きだからよ。愛してるからよ。ユウの幸せの為なら何でもする。ユウを手に入れる為なら何でもする 。あんたもそうでしょ? あたしを好きでしょ? 愛してるんでしょ? あたしに言ってくれたわよね? エマの事を好きだ。だから俺と付き合ってくれって! 結婚してくれって言ったよねっ!」
その記憶はコウシロウやアユが死んだ本来の記憶の出来事だ。
「アユはもう死んでいるのに、あんたの心の奥にはいつもアユがいたよね。だからあたしが邪魔になってコウシロウとくっつけて過去を変えようと思ったんだよね……」
「い、いや、それは」
「あんたがあたしと付き合うようになってからも、ずっとアユの事を好きで忘れられないって知ってた。あたしはアユの代用品だっていうのも分ってた」
「違う! 確かに俺はアユの事は忘れられなかった。でも落ち込んでる俺をずっと心配してくれて、励ましてくれたお前の事は本当に好きだった! この気持ちは嘘じゃない! お前がいたからアユやコウシロウの死を乗り越えられたんだ!」
「でも一番好きなのはアユなんでしょ?」
「ちがっ「嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘よっ! 過去を変えてアユと結ばれようとしたじゃないのっ!」
「俺はただ皆が死なずに生きている世界を創りたかっただけだよ!」
「だったらあたしはどうすれば良かったの? アユとコウシロウを殺さないとあんたはあたしのものにならない。二人を生かしたいあんたからすれば、あたしは邪魔よね? そっか。あたしが一番先に死ねば良かったのね。そしたらあたしを除いた三人で幸せに暮せるものね!」
「三人だけじゃだめなんだよ! 四人一緒じゃなきゃだめなんだ!」
「ユウ、もういい。もういいよ。あたしは疲れたの。今迄様々な精神空間を創ったけど、結局あんたの心はあたしには向かなかった」
この空間をエマが創っただって!?
つまりあの不思議な部屋に俺を入れた奴の正体はエマだったんだな。
「あんたがあたしを好きになるって期待して、一億回もリセットしてリセットしてリセットしてリスタートしてリスタートしてリスタートしても、結局いつも最後の最後であんたはアユを選ぶのよ。アユをアユをアユをアユをアユをアユを結局あんたはアユを選ぶのよ! もう現実世界の地球は壊れてアユどころか人類は滅んでいるっていうのにね」
「え? 人類が滅んでいるって?」」
その瞬間周囲の風景が暗転して真っ暗になった。
豹変したエマや烏丸の顔をした王や兵士。
解像度の低いアユやコウシロウや烏丸マスター達もみんな消えた。
「な、何が起きた!? ほかのみんなは? ここは何処だ!?」
すると目の前に大きなスクリーンが現れ映像が映し出された。
その映像には宇宙から見た青く輝く地球の姿が映っている。
「これって……地球……だよな」
エマの声が暗い空間に響く。
「この映像は地球の最後を記録したものよ」
地球の最後ってどういう意味なんだ?
その映像を見ていると丁度北極の上空、大気圏ギリギリのあたりに渦巻く光りが現れ地球が砕けながらその光りの渦に吸い込まれていく。
「ち、地球が……」
「あれは烏丸の仕業」
「烏丸の!?」
「彼はこの宇宙の外から来た意識だけの生命体。彼は様々な宇宙を渡り歩き、生かす価値のある知的生命体を探していたの。でも価値がないと判断されたあたしたち人類は彼によって消滅させられた」
ちょっとまて。
頭の理解が追いつかないぞ。
烏丸がいわゆる宇宙人で? 人類を滅ぼしたのか?
「でもあたしの心には興味が湧いたようで、あたしにだけはこの精神世界を創る力をくれて、あんたをこの世界に閉じ込めてくれた」
「つ、つまり俺とエマ以外の人間はもう……」
「滅んだわ」
嘘だろ!? 地球も人間も日本も俺の暮らした町も学校も何もかも消えてしまったって!? ゆ、夢なら、これが夢なら早く覚めてくれ!
烏丸! これもお前の演出なんだろっ!?
俺を困らせて笑ってるんだろ?
もう降参するからこの状況が嘘だと言ってくれ!
その時烏丸の声がした。
「嘘じゃないよ。これは全て真実さ」
「烏丸? 冗談はやめてくれ、笑えない!」
「ふふふ。冗談じゃないんだよ。ぼくはね長い年月をかけてこの地球という星の人類を観察してきた。それで興味深かったのがエマさんだったんだ」
「どういう事だよっ!」
「まあ、そんなに熱くならないでよ。もう何をしても君の知っている地球には戻らないんだから」
「そ、そんな……嘘だろ……」
「それでねエマさんは君の事を好き過ぎて、他人を殺したり狂わせたりと君の為に何でもやっていた。それも君に気付かれる事なく何年も何年もずっとね」
「小学生から高校の話だよな?」
「いいや。君が社会人になってからもずっとだ。彼女が陰ながら君を幸せにしようとしていた」
「え? それって、どういう」
「鈍感な主人公はお勧めでないな。それってヒロインの心を傷つけるだけだよ。まあいいや、もうエマさんはこの精神世界を消すつもりのようだから話しちゃうけど、彼女は君が大学行って社会人になっても君の事を陰ながら助けていたのさ」
き、気付かなかった。
エマがそんな事をしていたなんて。
そんな長いあいだ俺を助けてくれていたのか?
「具体的には……君に好意をよせる女性を殺したり自殺に追い込んだり、悪意を持って近づく男友達なんかは拷問してから精神病院送りにしたりと、そのほかにもいろいろとやっていたね。君が社会人になってからもずっとね。彼女は狂気的に猟奇的に狂信的に君を愛していたんだ」
あのいつも元気で明るい性格のエマが?
知らなかった。
俺が知らないところでそんな事を続けていたなんて全く気付かなかった。
俺は今迄彼女の何を見ていたんだろう。
まるで彼女の事をわかってやれていなかったんだな。
「君の鈍感さにはあきれるよね。何もかも順調すぎる人生で変だとは思わなかったのかい?」
言われてみれば何もかも順風満帆な生活だったな。
希望の大学に入り希望の会社に就職して仕事も順調で楽しかった。
明るい性格の美人なエマと恋人関係にもなったし。
でも、知り合いがいつの間にかいなくなっているのは変だと思っていたけど。
「だから僕はエマさんに興味が湧いたんだよね。なぜ彼女はそこまで君を愛するのか。どうして君の為にそこまでするのかってね。こんな事例は僕が観察してきた人類史のなかでは今迄例が無かったから」
俺もなぜエマがそこまでしたのか分らない。
エマとは小さい時からの幼なじみで仲良く遊んだり一緒に登下校した。
それだけのはずだ。
俺は彼女に何か特別な事をしてあげたという記憶はない。
一体どうしてエマはおかしくなってしまったのか。
それにいつからだ?
「いつからそうなったか気になってるよね?」
「あ、ああ」
「それはね……」
その時エマの声が暗い空間に響いた。
「それはユウが熊のイラストの描かれた鉛筆をあたしにプレゼントとしてくれた時からよ」
「鉛筆? そういえば小学三年生の時にエマの誕生日だって言うから、女の子らしい鉛筆をプレゼントした記憶がある。それだけで?」
「その鉛筆はあたしが生まれて初めてもらったプレゼントだった。嬉しかった。嬉し過ぎて誕生会が終わって自分の家に帰ってから沢山泣いた」
「普通の鉛筆だったはずだけど」
「あたしにとっては特別なものだったの。そしてその特別なものをあたしにくれるあんたは特別な存在になった。その時からあんたを好きになった、でもあんたはアユの事しか見ていなかったよね。あたしがあんたに消しゴムを貸してあげても、友達の少ないあんたと一緒に遊んであげても、宿題を忘れた時にノートを見せてあげても、一緒に登下校してあげても、あんたがあたしを好きになる事はなかった」
確かに俺はエマの気持ちには全く気付いていなかった。
それどころか女の子としてさえ見ていなかったかもしれない。
あの頃の俺はアユを好きだったから。
「あたしね、親から何年も毎日のように殴られたり蹴られたり暴力を振るわれていたの」
「えっ!? そんな素振りは一度も……顔にだって痣なんて無かったし」
「知らなくて当然よ。あたしの親はね周囲にバレないようにあたしを殴っていた。服の下はいつも青あざだらけだったのよ。それに必要物以外で親から貰ったものなんて一つも無かったから、あんたから貰った鉛筆はすごく嬉しかった。使おうと思って鉛筆の芯を削ってはみたけど、結局もったいなくて一度も使わずに引き出しの奥にしまったままよ」
「エマ……お前にそんな過去があったのか。知らなかったよ」
「苦しかっし痛かったよ。でもね一番耐えられなかったのはあんたがあたしを好きになってくれなかった事よ!」
「それは……」
「だからあんたがあたしを見てくれるように行動してきた。だけど何も変わらない。変えられなかった。烏丸に精神世界を創る力をもらってからも、何度も何度も何度も人生を繰り返しても結局あんたはアユを選んだっ!」
「……」
「だからあたしは今回で終わりにする事にしたの。もう無理なんだわ。いろんな世界設定を試して一億回も繰りかえして駄目なんだもの。この先何回繰り返したとしても結果は変わらないでしょうね……」
エマは俺の為に一億回もこの精神世界で人生を繰り返した。
気が遠くなるような年月を繰り返していたのか。
エマが狂ったのも無理はない。
誰だって望まない人生を一億回も繰り返したら気が狂うだろう。
「最後に……」
さっきまでの泣き叫ぶ様な声ではなく、疲れきったような静かで穏やかなエマの声が暗い空間に響く。
映像を映していたスクリーンが消え、目の前に俺の記憶通りの大人になった綺麗なエマが現れた。
そして彼女は俺にゆっくりと近づき優しく俺を抱きしめる。
「ユウ。いままで苦しめてごめんね。あたしの一方的な愛を押し付けて本当にごめんね」
「エマ……俺は……」
「もうあの変な世界に行く事も、狂ったあたしに会う事もないから安心して」
「エマ。俺の話を聞いてくれ」
「あたしがこの繰り返す精神世界の消滅を望めばあたしの存在は消える。烏丸とそういう取引をしたの。その後はあんたが別宇宙の地球のような惑星で平和に暮らせるよう烏丸に頼んでおいたわ」
「エマ! 俺はっ! 「もう時間みたいね」
次の瞬間、暗かった周囲の空間に光りが満ちて視界の全てが真っ白になった。
眩しくて目を開けていられない。
なんとか目を細めてエマを見ようとしたが、彼女は俺から離れて背を向け光りの中に溶けるように消えてしまった。
「エ、エマっ! おい! 待てよっ!」
俺の叫びも虚しく光りの空間は俺をも飲み込み、自分の身体が存在するという感覚が失われていく。
今度は白い空間の中に烏丸が姿を現した。
「悪いけど君の事を一度意識だけの存在にしてから別の宇宙に送るよ。それが彼女の望みだからね。遺言、とでも言ったほうがいいかな」
「おい烏丸! もう一度エマと話させてくれ!」
「ああ、それはもう無理だね。もうエマは消えてなくなったよ。君に新たな生活をさせるためにその身を犠牲にしたんだ」
「そんなっ!? もしかしてエマとお前のした取引って……」
「ふふふ。そうさ。僕はエマに精神世界を創る力を与えて君たちの恋愛ごっこを一億回見せてもらう代わりに、ユウ君、つまり君を別の宇宙で平和に暮らせるようにするという取引をしたんだ」
「嘘、だろ……つまりエマは俺を救うために?」
「そうさ。彼女ってすごいだろ? 自分の愛した男が他の女を好きでいる人生を一億回も繰り返すなんて。あ、これは彼女には口止めされてたんだった。まあいいよね。もう彼女いないんだし」
「お前……自分のした事がわかってるのかよ。お前の好奇心を満たすためにエマにとって辛い世界を……気が狂う程の辛い人生を一億回以上繰り返させるなんて!」
「君が僕を責めるの? 君にそんな資格あるのかな? 一億回も繰り返されたのに一度だってエマさんの気持ちに気付かなかった超鈍感男の君に?」
「そ、それは……」
「どちらにしろもう手遅れだよ。取引条件は成立している。あとは君を転移させて終了さ」
「どうしてお前はエマがいなくなったのに彼女との約束を守るんだ?」
「酷いな君は。僕を詐欺師だとでも思っていたのかい? 僕たち意識生命体はね肉体が無い分精神性を大事にするのさ。だから生物の感情に興味があるし一度約束した事は必ず守るんだよ」
思い返してみると烏丸はいつも人を観察していたな。
特に人の感情やその感情によって引き起こされる行動を興味津々に見ていた。
「それにしてもエマさんの観察は有意義だったよ。人という種族の持つ愛という感情の奥深さには驚かされた。狂ってまで貫き通す愛か……僕たち意識生命体には無い特質だ。今回の観察結果は僕の好奇心を存分に満たしてくれたよ。でも残念でもあるのさ。もうエマさんのような人を観察できないなんて」
「一億回もエマを観察してもまだ足りないのか?」
「僕たちの好奇心は底なしさ。僕たちは肉体から解き放たれ永遠に生きる存在となったんだ。だから無限の宇宙を渡り歩き、様々な生物を観察して好奇心を満たし続けるんだ」
こいつらは俺達の感情に興味があるようだが、それは知的好奇心だけであって思いやりや愛情をもっているわけじゃない。
もし烏丸にそういう人間的な感情があったのなら、生かす価値がないといって地球を消滅させるなんてしなかったはずだ。
なんて奴だ。
だけど今俺の心の中にある願いを実現するには烏丸の力が必要だ。
「なあ烏丸。まだパン食い競走を優勝したときの願いを聞いてもらってないよな?」
「あ、覚えてた?」
「忘れるわけないだろ」
「あのゲームのような世界はエマさんが創った世界で僕は傍観者に過ぎなかったんだけど?」
「でもお前は王座に座っていただろ? 俺の願いは王様に叶えてもらうはずだ」
「そうきたか」
「約束は守れよな。意識生命体は約束を守るんだろ?」
「君がそこまで言うならしかたがないね。約束は守るよ」
「じゃあ俺の意識を時間を遡って過去の自分に移してくれ」
「え、君は過去に戻りたいの?」
「ああ、過去のエマが罪を犯さないように彼女の心を救いたい」
「でも君が救いたいと言う過去のエマさんは、さっきまでここにいたエマさんじゃないんだよ? それでも行きたいの?」
それはわかってる。
俺を長い間想い続けてくれた彼女はもういない。
消えてしまったんだ。
「それでも彼女を救いたい。俺はエマを救わないといけないんだ」
「そうか。はっきり言うけど。僕にはできないよ」
まあそんなに都合良くはいかないよな。
「でも、僕たちならできる」
「僕たち?」
「そうだよ。僕たち意識生命体の総意ならね」
その時真っ白な空間の全周囲に見知らぬ人々が数百数千数万、数えきれないほどに次々と現れた。
「な、なんだこいつら!?」
「君が認識しやすいように人の姿を借りた僕の家族さ」
「つまりこの人達もお前と同じ意識生命体か。お前らなら俺の願いを叶えられるというのか?」
「できる。けれど時越えにはかなりの力が必要になる。つまり過去に戻るには大きな代償が必要なんだよね」
烏丸は口角をあげて癇に障る笑みを浮かべた。
「だと思ったよ……俺もエマのようにお前達を楽しませろって言うんだろ?」
「正解。察しがいいね。そうだよその通り。君は僕たちにどんな興味深いものを差し出せるのかな?」
こいつらの好奇心を満足させられるものとは一体なんだ?
意識生命体は俺達の感情に興味がある。
それも狂う程の強い感情に。
「もしも俺を過去に飛ばしてくれるなら。お前達から見て価値ある存在。つまりお前達の好奇心を満たす人間を一万人、いや一億人に増やしてやるよ! もしできなければ一億人に達するまで俺が何度でも人生をやり直してもいい」
「へぇ〜、それは興味深いね。でもそんな事したら君の精神がもたないと思うよ。一億人になるまでどれくらいやり直しが必要なのか検討もつかないからね」
「そうだとしてもやらなきゃならないんだ。例え俺の心が壊れたとしてもエマが幸せに暮らすために地球を消滅させるわけにはいかないからな」
「それ、わかって言ってる? 死ぬより辛いかもしれないよ?」
「そうだろうな」
「途中止めたくなっても止められないからね」
「逃げ場がない方が俄然やる気が出る」
「ふふふ。わかったよ君を過去に送ろう。ただ条件をつける。一億回人生をやり直すまでに僕たちが興味を持つような人間を一億人にする事。これが条件だ。もしも君がこの条件をクリアできなかった場合は。本来の予定通り君もろとも地球を消滅させるけどそれでいいかい?」
「かまわない」
「失敗すれば君の命を救いたいというエマさんの願いが無為になるけど、本当にいいんだね?」
「ああ」
「ちなみに僕たちの好奇心を満足させるような人を増やせる見込みはあるのかい?」
「今は考えてない。でも試行錯誤してやってみるさ。なんせ一億回もリスタートできるんだからな」
エマの本当の願いは俺だけが生き残る事じゃないはずだ。
俺はエマと一緒にいたい。
エマも俺と一緒にいたいと思ってくれるはず。
俺達が二人で幸せに生き残る世界。
それがゴールだ。
俺は絶対にエマの心を救い地球の消滅も防いでみせる。
何度やり直したとしても諦めない!
「じゃあ時空の扉を開くよ。準備はいいかい?」
その時、周囲にいる数えきれない程の意識生命体達が両手を頭上に掲げた。
すると彼らの膨大な力が俺の前に集まりはじめ、その力が集束した場所に見た事のあるドアが出現した。
そのドアは白い色で小さなガラス窓がついていて、英語でウエルカムって書かれた板が貼付けてある。
忘れるはずがない懐かしいドアだ。
みんなと出逢った英会話スクールへの入り口。
そう、ここで俺はエマと初めて出逢った。
俺がここに初めて来たときにドアを開けて中に入ると、一番先に俺に気付いたのはエマだった
ショートカットが似合っている可愛い快活な女の子。
小さなエマの第一声は『あんた誰?』だった。
それからコウシロウやアユや他の子供達も集まって来て、すぐにみんなと仲良くなり一緒に英会話の勉強をしたんだっけ。
懐かしいな。
気がつくと俺の身体は小さくなっていて近くを人が往来していた。
車が走り去るエンジン音。
近くのスーパーから流れてくる昔流行った歌。
ここは間違いようも無い俺が生まれ育った町の風景。
そうか。いつの間にか俺の意識は小さい頃の自分の中に入っていたんだな。
俺は英会話教室のドアに近づく。
すると誰かがドアを開けて外に出て来た。
出てきたのはショートカットの女の子。
小さなエマだ。
落ち着け俺。
今の彼女には俺と過ごした記憶はないはずだ。
俺がドアを開ける前にエマが外に出て来たのは予想外だけど、きっとエマの第一声は『あんた誰?』だ。
すると俺の姿を見つけたエマは目を見開いてから驚き、両目に涙を貯めながら俺に抱きついてきた。
あれ? 俺の予想と違う。
そしてエマが俺の小さな胸の中で泣きながら言った。
「ユ、ユウ。もう会えないかと思ったけど、また会えたっ!」
「え!? もしかして」
「うん。あたしも意識だけ過去に送られてきたみたい」
消滅したと思っていたエマは俺と一緒に過去へ来ていた。
烏丸の奴め、気に入らない奴だったけど最後の最後で本当に嫌いになったよ。
こんな事されたらお前に感謝したくなるじゃないかよ!
「こっちに来る直前に烏丸がユウに伝言を伝えてくれって変な事を言ってたよ」
「変な事?」
「うん。せかいじゅの葉を勝手に使いました、だって。どういう意味?」
「あ〜それはね」
俺はエマの涙を拭い、せかいじゅの葉について説明しつつ彼女と一緒に英会話スクールのドアを開いた。
男は脱出できるのか32 千粁 @senkilometer
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