さくらの魔法
笹川チエ
第1話
僕の幼馴染は魔法が使える。
このことは僕と幼馴染だけの内緒だ。他の誰にも言ってはいけない。両親にも友人にも先生にも。なぜなら、この世で魔法を使えるのは僕の幼馴染だけだからだ。知られてしまえばきっと異常な人間として扱われ、どこぞの大人に連れ去られ、研究所で実験でも何でもされてしまうかもしれない。危ない人間だと判断されて、どこかに閉じこめられてしまうかもしれない。だから彼女の魔法を見たことがあるのは僕と彼女だけ。彼女、そう、彼女だ。僕の幼馴染は女の子。真っ黒なセーラー姿がよく似合う、可愛い僕の幼馴染。
「いやらしい目をしている」
僕の視線がセーラーに逸れていることに気がついたのか、彼女はじろりと僕を睨んだ。慌てて彼女の目に視線を戻し、きゅっと口端を笑わせる。すると額にデコピンされてしまった。痛くない。僕の幼馴染は優しい。
放課後の教室は僕と彼女以外に誰もいない。この場所で彼女と話すのが僕は好きだ。学校で二人きりになれる場所はめっきり少ない。だからこうして、夕焼け色に染まりつつある教室でのんびり彼女と話せるのは、僕にとってすこぶる貴重な時間だ。
「でも、少しもったいないよね」僕がそう言うと、彼女は何のことかと首を傾げた。肩まで伸びた黒い髪が小さく揺れる。
「君の魔法を皆に見せられないのは」
「どうして?」
「だって綺麗だし」
「ほほう」
魔法を褒めると、彼女はとても上機嫌になる。そして決まって、ご自慢のそれを見せてくれる。
彼女は右手を上げ、人差し指を僕に向けた。ぐるぐると指を回す。すると、ちか、と何かが瞬いた。ちか、ちか、と、彼女の指の周りで瞬くそれは、僕が見る限り、星らしきもの。星屑であるとか、とても小さな金平糖のようなものにも見える。黄色のような、金色のような小さな輝き。ちかちかが、きらきらに変わる。彼女の指から零れ落ちていく。慌てて両手を出して掬うと、きらきらは僕の両手の中で輝き続けた。夕日が差し込んで、それは色を変える。夕焼け色。白色。星色。夕焼け色。ぽおっと見つめて暫く、それは空気に溶けるように消えていく。彼女の魔法は残らない。手の中に収めても、握っても、やがて消えてしまう。それだけが少し寂しい。
「やっぱり、綺麗だ」
「どうもありがとう」
「僕だけが独り占めしているようで申し訳ない」
「私は別にいいけどね」
「別に?」
「君だけに見せられれば、別に」
手の平に落としていた視線を上げる。彼女は唇を尖らせながら僕から目を逸らしている。その頬が赤いのは、夕日のせいだろうか。それとも。
ここぞとばかりに、僕は再び彼女のセーラーを見つめる。上下ともに真っ黒な生地。襟元には赤のライン、赤のリボン。リボンなのかな。スカーフかもしれない。どちらなのか僕は知らない。スカートの長さは膝丈下。だから彼女の膝は、いつもスカートに隠されてしまう。彼女には秘密だが、僕はセーラーにも彼女の魔法がかかっている思っている。だって僕は彼女のセーラーを見るだけで胸がドキドキしてしまうのだ。襟元から覗く肌とか、袖口から見える手首とか、スカートの下、膝から足先を覆っている真っ黒のタイツとか―――あれ、これはセーラーにドキドキしているのか? 僕はただ、彼女にドキドキしているだけなのでは?
「またいやらしい目をしている」
「うっ」
二度目のデコピンをされると、魔法の名残なのか、きらきらっと星屑が目の前に落ちる。拾おうとしたけれど、その前に消えてしまう。もう一度見せてよ、と言おうとしたそのときだ。
「まだ誰か残ってるのか」
第三者の声。見ると、教室の入り口に僕の担任の先生がいた。アラフォーの男性。そこそこ優しく、そこそこ顔が良い、と生徒に人気。そんな先生は居残っているのが僕だと気づくと、顔を訝しめた。
「早く帰れよ。もう六時過ぎてる」
「はい」
慌てて帰る支度をする素振りを見せると、それ以上なにも言われることなく先生はその場を去った。足音が聞こえなくなってから、僕は手に持った鞄を机に置く。そっと息を吐く。
「なんか先生、変な顔してたね」
そう言いながら彼女は立ち上がる。先生の言う通り、そろそろ帰らなきゃいけない時間なのは本当だ。
「不純異性交遊を疑っていたのかも」
「不純なことしてないのに」
「ね。自分は生徒に言い寄られてるくせに」
「そうなの?」
「噂だけどね。女子生徒に毎日告白されてるって」
「モテモテだ」
「顔も良ければ性格も良い。それが鼻につかない気さくさがあるから、男女共にモテモテ」
「ふうん」
興味無さげに生返事されたことに安心してしまう。僕は心が狭い男だ。彼女が別の人間に興味を持ってしまわないか、いつだってそわそわしてしまう。
僕は彼女のように魔法も使えない、どこにでもいるごく普通の男子高校生だ。彼女の幼馴染という点しか良いところがない。それなのに、彼女は僕にだけ魔法を見せてくれる。僕に彼女の時間をくれる。その理由を、僕はちゃんと聞いていない。尋ねる勇気がない、情けない高校生なのだ。
「帰ろう」
だから僕は、今日も伝えようと思っていたことも言えずに立ち上がる。彼女が頷くと、ぽろんと星屑が零れた気がした。それは気のせいだけれど。
***
僕の父親と母親は仕事で大変忙しい。だから食事を用意するのは僕の役目だ。晩ご飯も自分で作っている。そのことを、僕の彼女はとても褒めてくれる。
「高校生なのに偉い」
「そうなのかな」
「自立してる高校生は格好いい」
「……何が欲しいの?」
「コロッケ食べたい」
やっぱりそんなことか。彼女は魔法が使えるけれど、食べ物を生成することは出来ない。前に一緒に料理をしたけれど、てんでダメだった。
帰りにスーパーへ寄るのは週に一度だ。毎日買い物するのは面倒だから、一週間分の食材を買い込む。両手に買い物袋を抱えながら、行きつけの肉屋さんに寄った。店主さんらしいふくよかな女性は僕を見るなり、嬉しそうに目を細める。
「コロッケかい」
「はい」
「いつもありがとね」
そう言いながら揚げたてのコロッケをくれた。コロッケ一つ七十円。小学生のときから彼女とよく買いに来ているから、すっかり常連客になっている。
いつものように七十円支払い、お礼を言ってから店を出た。歩きながら小さな紙袋を開けて、ほかほかのコロッケにかぶりつく。
「ああっ」
一口目にありつきたかったらしい彼女が不服そうに声を上げる。その声が聞きたいから、いつも一口目を食べてしまうのは内緒だ。熱いコロッケをほかほか頬張りながら、僕はニヤニヤしてみせる。
「うまいうまい」
「意地悪だ」
「はいどうぞ」
食べかけを差し出すと、彼女は変わらず不満げにしつつも被りついた。その瞬間、あっというまにその顔はとろけてしまう。彼女はあの肉屋さんのコロッケが大好物なのだ。じゃがいものホクホク感が大好きらしい。嬉しそうにコロッケを味わう彼女を横目にしつつ、コロッケの油がちょっぴりついた唇にドキドキしつつ、僕は残りの分を頬張る。
「そんなに食べたいなら、二つ買うよっていつも言ってるのに」
「太っちゃうじゃん。だから私は一口でいいの」
「ふうん」
コロッケを食べ終え、僕は両手の買い物袋を持ち直す。今日は野菜がどれも安かったら、随分買い込んでしまった。キャベツが一つ。レタスが二つ。カボチャが一つ。白菜一つ。あとは卵のパック一つと、魚とお肉。無くなりそうな調味料である醤油とみりん。どれもサイズ重量ともに大きい。
ついよろけそうになると、彼女は心配そうに僕の顔を覗き込む。
「私、持とうか?」
「まさか」
そんな情けないことを頼むことは出来ない。幼馴染の前では格好つけたいお年頃なのだ。
意地でも買い物袋を渡さないでいると、彼女は少し呆れた様子で微笑む。「しかたないなあ」と言わんばかりに、そっと手を伸ばされた。買い物袋を持った僕の手に重なる。白く柔らかい、ふわりとした温かさにドキリとする。
そして、僕の手と彼女の手がふわっと光った、ように見えた。見間違えかと思ってしまうくらいの一瞬。何事もなく光は消えて、おっ、と僕は気づく。さっきまで買い物袋の重量で肩が前に屈んでいたのに、それが無くなっていたのだ。
「荷物軽くなった」
「でしょう?」
「今のも魔法?」
「そうそう」
「すごい」
「どうもありがとう」
彼女が得意げに笑う。その顔を見るのが、僕は好きだ。得意げな顔。嬉しそうな顔。上機嫌な顔。つまり僕は、彼女の笑顔が好きだ。見るだけで、僕も同じように嬉しくなるし、上機嫌になる。
「いつも」
「ん?」
口に出すつもりはなかったのに、つい零れていたらしい。彼女が聞き返してくれたのだから、続けないわけにはいかない。
「いつも、君の魔法は僕を元気にしてくれる」
「そうなの?」
「初めて見せてくれた魔法もよく覚えてる」
「なんだっけ」
「覚えてないの?」
「さてどうでしょう」
ふふふと笑いながら口を抑えている。こういうときは覚えているときだ。僕も真似して笑ってみせる。
「公園で一人泣いている僕に、桜吹雪を見せてくれた。あの日はすこぶる寒い冬だったのに」
「綺麗だったよね」
「自分で言う?」
「ふふふ」
しかし彼女の言う通りだから否定もしない。
白い息を吐きながら見上げる桜吹雪。涙越しに見えた、舞い上がる桜色。彼女の得意げな笑顔。僕は絶対に忘れないだろう。彼女の魔法も。彼女の笑顔も。
「昔から、君は私に甘えん坊だったもんね」
「なんだよそれ」
「いつも魔法見せてって言うし、私としか遊ぼうとしないし」
「他に友だちがいなかったから」
「消去法なの?」
「まさか」
その続きを、やはり僕は言えない。勇気を出せない。まさか。そんなわけない。だって僕は。僕は君が。
一緒にいて十数年が経つと言うのに、僕は未だに彼女へ全ての気持ちを伝えられない。本当に情けない高校生だ。誤魔化すようにブレザーのネクタイをいじることしか出来ない。すると、「あとは?」と彼女の方が話を振ってくれる。
「他にはどんな魔法が良かった?」
「えっとね」
思いつきすぎてピックアップがすぐに出来ない。とりあえず古い順から出していこうと考え込んでいると、どかっと何かにぶつかってしまった。
「ぶっ」
「おわっ」
第三者の声、かつ、最近聞いたことのあるような声。見上げると、そこにはさっき僕へ帰りを促した先生がいた。
「お前、帰ったんじゃなかったのか」
「……ええと」
ずしりと買い物袋が重くなる。目を泳がせつつ、素直に「買い物に寄っていまして」と言えば、先生は両手を塞ぐ買い物袋を左右に見た。
「先生は、えっと」
「俺も帰るところ」
「早いんですね」
「先生もいつだって定時に帰りたいんだよ」
「なるほど」
「家近くなのか」
「あと五分くらいで着きます」
「ご近所だったんだな俺たち」
「なるほど」
適当に返事しているのが丸分かりなのか、先生は緩く笑った。ここで怒らないところが、生徒たちから人気を博している要因なのかもしれない。更に先生は、まるで自然な流れのように僕の片手から買い物袋を取り上げた。
「あ」
「もう日も沈んで来たし、家まで送る」
「いや、でも」
「予想以上に重いな」
「野菜が安くて」
「なるほど。道どっち?」
「あっちです」
良い人だなと思う。生徒を思いやってる。良い距離感を掴もうとしてる。片方だけになった買い物袋を持ちながら、先生と歩き出す。
「晩飯の食材か? これ」
「晩ご飯と、あと残り一週間分の食事と」
「お使いか」
「料理も僕がします」
「すごいな」
「そうでしょうか」
「俺はすぐ出来合いで済ますから」
「だって」
だって手料理にすると、彼女が喜んでくれるから。そんなことは言えない。恥ずかしいから。伝わらないから。僕の気持ちは、きっと笑われてしまうものだから。
続きを喋らない僕を不思議に思ったのだろう。先生はこちらを見るが、目を合わせることが出来ない。僕は人見知りが強く、流暢に喋れる相手は僕の幼馴染ぐらいだ。治すべきなんだろうけれど、僕自身はあまり不便に思っていない。だから、治すつもりはあまりない。
「あのな、高橋」
高橋、とは僕の名字だ。名前を呼ばれてしまうと、先生の方を見るしかない。先生も僕の方を見ている。それは、僕が苦手な視線だ。大人の視線。心配するような視線。どこか不安も浮かび上がった目。
「高校生相手にこんな心配するのもアレなんだけどさ。お前友だち少ないだろ」
「……そんなストレートに言われたの初めてです」
「言葉をオブラートに包めない先生なもんで」
「少ないけど、いないわけではないです」
「うん、わかってる。先生が心配する程ではない」
「なら」
何か言われるいわれはない、と述べる前に、先生の声が覆いかぶされる。
「ただちょっとだけ気になるところがあって」
「何がですか」
「お前、よく独りごと言うだろ」
立ち止まると、先生も止まる。先生は目を逸らさずに俺を見ている。
「……人よりは、多いかもしれませんけど」
「さっきの教室とかも、結構大きめに言ってた」
「それは」
「まるで誰かに話しかけてるみたいに」
誰かじゃない。
誰かじゃない。僕の幼馴染だ。彼女だ。魔法を使えるんだ。でも、それは僕と彼女の秘密だ。誰にも話してはいけない。
だって、話したって。
誰も。
「他の先生にも、そういうお前の姿を見かけたっていう人がいてな。『お前担任なんだから聞いて来い』って言われちまって」
「なるほど」
「高橋」
「はい」
「お前が嫌なら、これ以上は聞かない」
「嫌です」
「そうか」
そうか、と先生は繰り返す。先生は良い人だ。申し訳ない。だけどどうしようもない。どうすることも出来ない。
だって彼女の魔法は、僕以外の前だと消えてしまう。
「先生」
「ん?」
「先生はブレザーとセーラーどっち派ですか」
「生徒の前で言えるかアホ」
「今は学校じゃないですよ」
「お前が卒業しない限りどこでもずっと先生と生徒ですよ」
「オフレコにしますから」
「オフレコって」
「友だち少ないから言う相手もいません」
僕が引かないと思ったのか、やれやれと言わんばかりに先生は頭を掻く。そして降参したのか、小声でボソボソと答えてくれた。
「……あえていうならセーラーかな」
「ほほう」
「絶対言うなよマジで」
「うちの学校はブレザーだから残念ですね」
「やっぱ言うんじゃなかった」
ヘトヘトになりながら、先生は僕を家の前まで送ってくれた。僕に買い物袋を返しつつ、「言いたいことがあるならいつでも言えよ」という台詞だけを残して去った。明日になったら、またいつも通り接してくれるのだろう。
話してみても、よかったかもしれない。だけど僕には勇気がない。彼女に出会ってから、ずっと。
「良い先生だね」
隣で、彼女がぽつりと呟く。僕は彼女を見る。
肩まで伸びた黒い髪。真っ黒なセーラー服。襟元の赤いライン。赤のリボン、またはスカーフ。白い肌。長い睫毛。僕が知っている、僕の幼馴染。世界でたったひとり、魔法が使える女の子。
「でも、他の先生にも変な目で見られてるとは思ってなかったな」
「学校で話すの、やめた方がいいかな。人がいないときでもさ」
「嫌だ」
「でも」
「嫌だよ、そんなの」
君がいないように扱うのは嫌だ。人前でそう振る舞うだけでも胸が苦しいのに。泣きたくなるのに。
買い物袋が重い。身体中が重くて痛い。だけど、彼女が僕の背中を撫でてくれた。優しい手が僕に触れてくれた。それだけで魔法が生まれる。身体が軽くなって、心がじんわりと温かくなる。僕が一番好きな魔法。彼女が傍にいてくれるだけで生まれる魔法だ。彼女が僕だけにくれる、たったひとつのもの。
「早く家に入ろう、高橋くん」
彼女は僕のことを、高橋くんと呼ぶ。初めて出会ったとき、僕は六歳だった。彼女は十四歳だった。だから彼女にとって、僕はいつまでも年下なのだろう。僕が高校生になっても。たとえ僕が大人になろうと。彼女の姿がなにひとつ変わらなかろうと。
僕の家は一戸建てで、一階にリビング、二階に家族それぞれの寝室がある。リビングのテーブルに買い物袋ふたつを置いて、食事を作らずに僕は階段を上った。彼女が僕の名前を呼ぶが無視する。自分の部屋に入り、ベッドに倒れ込む。うつ伏せのまま枕に顔をうずめる。
「高橋くん、せめて魚とお肉は冷蔵庫に入れた方が」
彼女はベッドのそばにしゃがみ込み、僕の肩をぽんぽん叩く。数秒してから彼女に顔を向けると、彼女は困ったように眉を下げた。柔らかい指で、滲んだ僕の目を拭ってくれる。
「泣き虫だなあ、昔から」
「サクラさん」
彼女の名前を呼ぶ。僕がつけた名前。彼女は自分の名前を知らなかったから、六歳の僕がつけた。
「うん?」
「魔法見せて」
「はいはい」
手を差し出すと、躊躇なく握ってくれる。触れた肌が温かくなる。手と手の間が光って、そこから星屑が溢れた。夕焼け色。星色。それらが桜の花びらに変わる。小さく舞う。薄桃色が煌めいている。
綺麗だ。すごく綺麗だ。僕と彼女だけの魔法。僕にしか見えない魔法。
ますます涙が滲んで零れてしまう。困ったように彼女は笑う。そんな顔をさせたいわけじゃない。笑ってほしいのに。君の魔法を、優しさを、すばらしさを、世界中に自慢したいのに。
「どうして」
数えきれないほど口にした疑問。
「どうしてサクラさんは、僕以外の人に見えないの」
数えきれないほど耳にした答え。
「わかんない」
そして、ごめんね、と付け加えられる。わからなくてごめんね、と。
彼女が。サクラさんが何者なのか、僕にも彼女にもわかっていない。最初は幽霊なのかなと思ったけど、色々調べた結果サクラさんに似た亡くなった人は見つからなかったし、彼女も自分自身が何者なのかよくわかっていないし、何より僕と出会う前の記憶が曖昧のようだった。覚えているのは、自分が十四歳ということ、そして何だか不思議な魔法を使えるということだけ。だから僕は、変わらずサクラさんを一人の女の子として接することにしている。魔法を使える女の子。彼女のことも、彼女の魔法も僕にしか見えない。だからなのか、彼女の魔法は幅広いようで数は少ない。さっきみたいに荷物を軽くしたりは出来るけど、擦りむいた膝の怪我を治すことはできない。風邪を治すことはできないけど気持ち悪いという感情は薄めてくれる。星屑を見せることは出来るけど、天気を変えることはできない。僕が悲しいときは手を握って、胸を暖かくしてくれるけど、僕以外の人やものに触ることはできない。
「僕にも魔法が使えたらよかったのに」
「どんな魔法が使いたいの」
「君を笑わせる魔法」
「それならいつも使ってくれてるよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
彼女は微笑みながら、僕の頭を撫でる。まるで子どもをあやすみたいで少し悔しい。君より背が高くなったのに。重い買い物袋だって持てるようになったのに。
「高橋くんごめんね」
「なんで謝るの」
「友だち少ないの、私のせいだから」
「違うよ」
「違わないよ」
「僕は」
また僕は言葉に詰まってしまう。彼女がどんな顔をするかと思うと緊張する。怖くなる。だけど、今日こそは。今日だけは。
「僕は君がいいんだ」
たとえ、君が誰にも見えなくたって。
僕に友だちが少ないのは君と出会う前からだ。親はいつも帰りが遅くて、喋り下手な僕は友だちが上手く作れなかった。ひとりぼっちだった。寂しかった。苦しかった。だけど、子どもながら親に心配させたくなかった。だから僕はよく公園でひとり泣いていた。そうしたら、彼女が僕を見つけてくれた。魔法を、桜吹雪を見せてくれた。
「いつだって、君がいてくれた」
「…………」
「そのことが、僕にとって、何よりも大切な君の魔法だ」
彼女が僕以外に見えないことはすぐにわかった。それでも両親にわかってもらおうと一ヵ月ほど説得を試みたら、「いい加減にしろ」と父親に叩かれた。叩かれたのはそれが初めてだった。不安そうに僕を見る目も。叩かれた次の日、父も母も何もなかったように僕に接した。僕もそうした。あれから僕は二度と、誰にも彼女のことを話していない。
だけど、いつも彼女は僕のそばにいた。いてくれた。僕がせがむと魔法を見せてくれた。泣いていると慰めてくれた。喜ぶと自分のことのように嬉しがってくれた。僕の背が伸びると、「いつか追い越されちゃうのかなあ」と寂しそうにした。一緒に学校に行ってくれた。家に帰ってくれた。コロッケを、僕の作ったご飯を美味しそうに食べてくれた。悲しいときは背中を撫でてくれた。褒めてくれるときは頭を撫でてくれた。寂しいときは手を繋いでくれた。それが魔法となって、僕の心をすくってくれた。
「サクラさん」
「はい」
「僕は君が」
たった二文字。たった一言。
それだけを、未だ僕は言えない。言葉にすれば、形にすれば、何かが消えてしまいそうで怖かった。何かが変わってしまいそうな予感がした。いつ彼女が消えてしまうのかわかりはしない。毎朝目が覚めるたび、彼女がいなくなっていないか怖い。隣で彼女が寝ているたびに安心する。彼女がいなくなったら、僕はまたひとりぼっちだ。たとえ友だちが増えたって、ずっと、ずっとひとりだ。君がいない世界なら。
「……サクラさん」
「はい」
「抱きしめてもいいですか」
彼女の頬が、ぽっと赤くなる。口をぱくぱく開いて、それから、そっと頷いてくれる。
ベッドから降りて、彼女と同じように床へ座り込む。彼女の身体を引き寄せる。セーラーの柔らかい生地。柔らかい肌。頬を寄せ合う。肩と胸がくっつく。温かい匂いがする。彼女の魔法が、僕の胸いっぱいに広がる。
これさえあればいい。君の魔法さえあれば、他に何もいらない。僕を幸せにしてくれたのは君だから、僕が君を幸せにしたい。たとえ誰にも見えなくたって。本当はコロッケもご飯も、僕ひとりで食べていたって。君が笑ってくれるなら、僕はなんだってやる。君がいないふりをするのは辛いけれど、それでも、君が僕のそばにいてくれるなら。
「サクラさん」
「は、い」
「お腹すいたね」
「……すいた」
「ご飯作るよ」
「うん」
僕の幼馴染は、魔法が使える。
このことは僕と幼馴染だけの内緒だ。他の誰にも言ってはいけない。両親にも友人にも先生にも、もう二度と。知られてしまえばきっと僕は異常な人間として扱われ、どこぞの大人に連れられて、病院に閉じこめられてしまうかもしれない。危ない人間だと判断されて、よくわからない治療を受けさせられるかもしれない。そしてもし彼女に会えなくなってしまったら、僕はもう、ひとりで生きていける自信がどこにもない。
立ち上がるふりをして、僕はすかさず彼女のスカートの裾を摘まんだ。ちらりと上げると彼女の膝が見える。「ぎゃっ」と彼女が悲鳴を上げて僕の頭にチョップした。
「このマセガキめ」
「思春期だからね」
「次したら嫌いになるから」
「またまた」
もう、と彼女は頬を膨らませる。可愛い。心が熱い。痛い。苦しい。
好きだ。
君のブレザーも、膝も、頬も手も、笑顔も。
君の魔法も。
君も。
「ねえ、魔法見せて」
せがむと、彼女はしかたないなあと肩を竦める。人差し指が僕に向けられる。星屑と桜の花びらが舞う。僕の心へやってくる。
唐突に僕は彼女へキスをしたくなるけれど、好きも言えていないのにそんな勇気が出るはずもない。だから今は手を繋ぐだけ。その温かさを確認するだけ。これから僕が大人になっても彼女がそばにいてくれるなら、そのときこそは、勇気を持って彼女に伝えよう。君とずっと一緒にいたいと言おう。
僕を見つけてくれた君を、世界中に自慢できなくたって。
君がひとりぼっちで寂しくたって。
それでも僕のそばにいてほしいと。
「泣き虫だなあ」
彼女が笑う。桜の花びらが僕の涙を拭う。そういえば、僕は彼女の涙を見たことがない。いつか君が泣いてしまったときには、僕の手で拭ってあげよう。
それが魔法じゃなくても、君は笑ってくれるだろうか。
さくらの魔法 笹川チエ @tie_sskw
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