その3

 教室の壁に設置されているスピーカーから明るいチャイムが流れてきた。黒板の前に立つ英語の教師が自分の腕時計に目を向ける。


「じゃあ、今日はここまで。次回は形容詞についてやるからな」


 英語教師の声は、しかし、生徒たちの耳には届いてはいなかった。生徒たちの心はすでに昼食の方に向いていたのだ。


 英語教師はやれやれと呆れ気味に首を振りながら教室を出て行った。


 それを待っていたかのように全力で廊下へ飛び出していく男子生徒たち。食堂までの短距離走の始まりである。スタートダッシュが遅れてしまうと、昼食を求める生徒たちの長い列に並ばなくてはならなくなるのだ。


 幸いなことに、キザムは母親が毎日しっかりとお弁当を作ってくれるので、食堂までの短距離走に加わる必要がなかった。


 しかし今日に限って言うと、クラスメートたちとは異なるスタートダッシュをする必要があった。


 キザムは身体的な理由で激しい運動が出来ないのだが、それでも早歩き程度のスピードで教室を出ると、目的の場所へと急いだ。


 ランチタイムに入った校内では、勉強から解き放たれた生徒たちの明るい歓声がそこかしこから聞こえてきた。


 そんな明るい雰囲気とはかけ離れた重たい表情を浮かべて、ひとり廊下を突き進むキザム。無言のまま階段を上がっていき、屋上に続くドアの前まで来た。ドアノブを握り締めて、ドアを静かに開ける。


 今日は風が強いせいか、屋上に人影は一切なかった。でも、キザムにとってはその方がかえって好都合だった。今日だけは誰とも会わず、誰とも話さずに昼休みを終えたかったのである。


 なぜならば──今日という日は前の世界においてゾンビカタストロフィーが起きた、まさにその日だったのだ。


 あの日、ゾンビカタストロフィーは学校の昼休みに起きた。だから、キザムは昼休みの間は出来るだけひと目を避けて、誰とも接触したくなかったのである。加えて、さらに慎重を期すために、キザムは学校に登校してきてからずっと、カケル、流玲、沙世理の三人とは、いつも以上に距離を置いて接触を避けてきた。


 この世界にタイムループしてきて以降、一番気を付けないといけない日なのだ。


 キザムは人っ子一人いない屋上の端っこに座り込むと、母親お手製のお弁当を膝の上に置いた。ひとりでの昼食にはもう慣れたので、寂しいと感じることはなかった。早々に昼食を終えたのか、遊びに興じる生徒たちの大きな声が校庭から聞こえてくる。



 今日という日を無事にやり過ごせば、ゾンビカタストロフィーの脅威は一段落つくはずなんだ。校庭から聞こえるあの明るい声を、悲鳴になんかに絶対にさせないようにしないと──。



 決意も新たに、心中で自分自身に言い聞かせる。



 でも、その前に腹ごしらえをしっかりしておかないと。



 今のうちにお腹を満たすのも大事な仕事である。キザムはお弁当の蓋をゆっくりと開けた。


「──なるほど、そうきたか」


 お弁当の中身を見て、思わず声が漏れた。弁当箱にはキザムが大好きな卵がおかずとして入っていた。キザムの記憶では、今日のお弁当のおかずは『卵焼き』か『ゆで卵』だったはずである。しかし、今目の前の弁当箱の中に入っているのは、鮮やかな黄色をした『炒り卵』だった。


「──おかずが今までと違う……。これって何かを暗示しているのかな……?」


 一気に緊張感が高まってきた。硬い表情のまま、炒り卵を穴があくほどじっくりと凝視する。


 前の世界で、今までと違う現象が起きる理由として、『バタフライエフェクト』の影響が考えられると沙世理から教えられた。だとしたらこの後、キザムがまだ経験したことのないような展開が起きる可能性が出てきたということである。


 むろん、そのことがすぐにゾンビカタストロフィーの発生と結び付くわけではないだろうが、この後の行動には更なる注意を払う必要があった。



 そう簡単に歴史を変えることは出来ないということの、これは表れなのかもしれないな──。



 まさか弁当箱の『炒り卵』から、運命の不可逆性を学ぶ羽目になるとは思いもしなかった。


 母親には悪いが、せっかくキザムの健康を気に掛けて作ってくれたお弁当だったが、ゆっくり味わう余裕すらなかった。ご飯とおかずを交互に黙々と口に入れていき、口に残った最後のご飯を、水筒のお茶と一緒に胃に流し込んで、昼食を手早く済ませた。



 さあ、あとはいつもの薬を飲んで、この後の展開に備えようか──。



 キザムが自らの命を支えている飲み薬を手に取って飲もうとしたとき、屋上にその生徒が姿を現した。

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