その10
「うぐぐ……ぐぐげご……ごわげぞぞぞ……ぎゃごぞぶううううううーーーーーーーーーっ!」
流玲の姿をしたゾンビは人間の喉から発せられたとはとても思えない不気味な呻き声をあげたかと思うと、キザムに向かって猛然と襲い掛かってきた。
「────!」
流玲のことを心配するあまり逃げる機会を失したキザムは、一瞬で流玲に身体を掴まれてしまった。人間離れした流玲の怪力で身体をきつく締め上げられていく。
「な、な、流玲さん……」
流玲の胸元に両腕をつっかえ棒のように伸ばして、締め上げからなんとか逃れようと試みるが、ゾンビ化した流玲の尋常ではない力の前では、無駄な足掻きにしかならなかった。
あれほど触れたいと望んでいた流玲の身体に、ようやく触れることが出来たというのに、今、キザムはその流玲に喰われようとしている。流玲の身体に触れた両手からは、人肌が持つ温もりはまったく感じることが出来なかった。まるで雨で濡れそぼって根こそぎ体温を奪われた肌のような、冷たい感触だけがじっとりと伝わってくる。
も、も、もう……もう、本当に……だめなのか……? こ、こ、このまま流玲さんは……ずっとゾンビのままで……人間に戻ることは出来ないのか……?
もはや絶望しか見えないのに、それでも頭の中で考えを巡らせる。
「ふぎぎゅううううううーーーー!」
流玲の両手の緊縛がさらに強くなった。体中至る所の骨が軋み音をあげて、今にも折れそうなくらいの激痛が走る。
キザムの目の前には飢えに満ちて歪みきった形相を浮かべる流玲の顔があった。なんとかキザムの喉元に喰らい付こうと顔を強引にキザムの方に伸ばしてくる。その姿はもはや人ではなく、肉を求める野生の獣の姿でしかなかった。
「──な、な、流玲さん、ごめん……。きみのことを助けるつもりだったのに……ぼ、ぼ、ぼくは、助けられなかったよ……」
キザムの両目からは涙が次から次へと零れ落ちていく。視界が霞んでぼやけてくるが、なぜかゾンビ化した流玲の顔だけははっきりと見て取れた。
こんな流玲の顔など見たくなかった。いつもの笑顔を見たかった。
でも、それはもう無理な相談である。ここまで身体に変化が生じてしまったら、もう完全に手遅れであることぐらい、キザムだって悟っていた。
キザムの知っている流玲はもうここにはいなかった。いつもキザムの体調を気遣ってくれる優しい流玲はどこか遠くに行ってしまった。二度とは戻ってこられない遠くの方に──。
だとしたら、流玲を守れなかったせめてもの償いとして、この状況に何らかの形で決着を付けないとならない。
不意に右肩に鋭い痛みがはしった。炎の杭を打ちこまれたような激痛だった。人間の急所であるキザムの喉元を狙っていた流玲が狙いを変えて、ガラ空きになっていた右肩に噛み付いてきたのである。
「ぐごっ……ぐぐっ……ぐうげっぐぐぅ……」
キザムは奥歯をきつく噛み締めて、必死に痛みに耐えた。この痛みに負けたら、一気に流玲に押し倒されてしまうのは火を見るより明らかな情勢だ。それだけはなんとしてでも防がないとならない。
なぜならば、キザムには『最後の仕事』が残っていたからである。
「──だ、だ、大丈夫……流玲さん……もう人を……襲うことは、ないから……」
流玲の両腕から逃れようとしていた体勢から一転、逆にキザムは流玲の身体を自ら力一杯抱き締めた。
そうだ。流玲さんが悪いわけじゃないんだ。だから、流玲さんを一人にさせたりは絶対にしないから。
異変を感じたのか、流玲がキザムの両手から逃れようともがき始める。だが、キザムはそんな流玲を強引に引きずるようにして、屋上の柵の方まで連れて行く。
「ぎゅごっ!」
逃げることを止めたのか、それとも目の前の肉に意識が戻ったのか、流玲がキザムの右肩の肉を強引に噛み千切った。
「うぐげっ……。み、み、右肩ぐらい……ど、ど、どうってことないよ……。こ、こ、こんな痛みに比べたら……な、な、流玲さんの方が……何倍も、く、く、苦しいはずだから……」
「げぎょ……ぐちゃ……ぐちょ……」
流玲は右肩の肉片を口内で噛みつつ、それだけではまだ飢えが満たされないのか、今度はキザムの右耳に噛み付いてきた。
ブシュッという飛沫音をあげて、キザムの右耳が容易く噛み千切られる。
キザムの顔面が自らの血で真っ赤に染まっていく。
「ま、ま、まだ……こ、こ、これぐらいで……た、た、倒れたりは……しないから……」
キザムは明王のごとき憤怒の表情で屋上の柵に近付いていく。何に対して怒っているのか、自分でも分からなかった。不甲斐無い無力な自分に対して怒っているのか、体中を走る激痛に対して怒っているのか、それともゾンビ化した流玲に対して怒っているのか、あるいはこの状況を生んだ運命そのものに対して怒っているのか──。
いずれにしろ、その怒りを静める方法はもうひとつしかない。
この一連のゾンビカタストロフィーを今ここで、ぼくの手で止めるんだ!
「土岐野くん! 早まっちゃだめよ!」
背後から沙世理の声が聞こえてきた。沙世理もこれからキザムが行おうとしていることに気が付いたのだろう。
沙世理先生、ごめんなさい。ぼくにはもう『この方法』しか思い付かないんです。もうこれ以上誰かが傷付く姿は見たくないんです!
沙世理は死が迫っているカケルの傍から離れることが出来ないのか、キザムたちの方に来ることはなかった。あるいは、沙世理はキザムの決断を粛々と受け入れたのかもしれない。
流玲に噛まれた傷の痛みのせいで頭が朦朧としてきたが、両足だけは必死に前へと出し続けた。
いいんだよ、流玲さん……。ぼくの身体でよかったら、流玲さんの自由にしてもいいから……。だって、ぼくに出来ることはもうこれぐらいしかないから……。
全身に生じる痛みに耐えながら、キザムは辛うじて屋上を囲む柵の前までやってきた。相変わらず流玲はキザムの肉体を喰らうことに夢中である。
じゃあ、流玲さん……行くからね──。
この場所まで移動するのに少々手こずったが、キザムは流玲を両手で抱き締めたままなんとか柵を乗り越えた。そのまま当たり前のように、まるで空中に道が続いてでもいるかのように、身を乗り出す。
奇妙な浮遊感に身体が包まれた。しかし、それも一瞬で消えてなくなり、すぐに身体が重力に引っ張られていく。
自由落下していく最中、キザムは自分の腕の中にいる流玲に目をやった。あれほどキザムの肉を喰らうことに夢中になっていた流玲が、なぜか今は大人しくなっていた。キザムの腕の中から顔を上げて、キザムのことをぼんやりと見つめてくる。飢餓感に満ちた惨烈な形相はすっかり消えていた。両目は白濁したままだったが、キザムの血で染まった唇が──かすかに、本当にかすかに、震えるように動いた
キザムくん、ありがとう──。
キザムにはそうつぶやいたように見えた。あるいは、キザムの願望が見せた幻覚だったかもしれない。それでも、最後の最後に人間としての流玲の姿を見られて、キザムは心が幸せな気分で満たされるのを感じた。
ぼくの方こそ、流玲さん、いつも本当にありがとう──。
キザムは流玲の耳元にそっと口を寄せると、声にはならないつぶやきを返した。
数瞬後──二人の身体は激しく地面に叩き付けられた。
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