その5

 馳蔵医師──久しぶりに聞く名前である。何年か振りに聞く名前だった。もちろん、忘れていた訳ではない。いや、むしろキザムにとっては、絶対に忘れてはいけない名前だった。キザムが小学生のときに受けた遺伝子治療を施術してくれた人こそ、誰あろう馳蔵その人だったのである。国内の小児科医療ではトップクラスの腕前を持った医師であり、キザムにとっては命の恩人といっても過言ではないくらいの人物だった。


 その馳蔵の婚約者が沙世理だったとは初耳だった。だが、カケルの暴露話はそれに留まらなかった。


「キザムが受けた遺伝子治療を開発したのも馳蔵だったんだよ。でも、その遺伝子治療には……」


 そこで不意にカケルが声を詰まらせた。


「カケル……ぼくに変な気を遣う必要はないからさ……。いいよ、全部話してくれよ……」


 キザムは話の先を促した。カケルの話し振りからすると、これからする話は良くない内容だということは簡単に察せられた。おそらくキザムにとって都合の悪い話をしようとしているのだ。だから、カケルは言葉に詰まってしまったのだろう。


 それでも、キザムは話の先を聞きたかった。ここまできたら、自分の身に起きたことをすべて知りたかった。そうじゃないと、この一連の惨劇をしっかりと理解出来ない気がしたのである。


「いいわ、そこから先は私が話すわ。風上くんには荷が重いみたいだからね」


 ここで話し手がカケルから沙世理にチェンジした。


「今、風上くんが言ったように、馳蔵は私の婚約者よ。数年前から付き合っていて、去年、『ある事』を契機に婚約したの。土岐野くん、あなたも知っていると思うけど、馳蔵は小児科医療ではトップクラスの腕前を持っていて、自分でも最新の治療方法をいろいろと開発していたのよ。そして作り上げた治療法こそが、あなたが受けた遺伝子治療だったの」


 幼きキザムの命を救った治療法である。


「その治療には『ステップ細胞』と名付けられた万能細胞が使われたの。『ステップ細胞』が体内の悪い細胞をすべて駆逐して、患者は健康を取り戻すというのがおおまかな治療の流れだった」


 キザムが遺伝子治療を受けたのは子供の頃だったので、詳しい治療法の内容については記憶も曖昧で、よく覚えていなかった。あるいは子供だったので、聞いていたとしても理解出来なかったのかもしれない。その後も、自分から敢えて調べるということはしなかった。だから、今初めて自分が受けた治療法の内容を知ることが出来た。


 しかし、そこにカケルが口ごもるような悪い事柄が含まれているようには思えなかった。


「ぼくが受けた治療は無事に済んだはずでしょ?」


 もしも治療法に何がしかの問題があったならば、ここにキザムはいられないはずである。


「そうね。たしかに手術自体は成功したといっても良かったわ。体内に注入した『ステップ細胞』は馳蔵の期待通りに順調に悪い細胞を撃退してくれた。でも、そこである問題が生じたの。副作用が見付かったのよ。注入した『ステップ細胞』が馳倉の想像以上に働き過ぎたの。悪い細胞だけではなく、健康な細胞まで攻撃し始めたのよ」


「それって、いったいどういう意味なんですか……?」


 沙世理の話はたしかに衝撃的だったが、キザムはまだ他人事のように聞いていた。どうしても自分のこととは思えなかった。なぜならば、キザムの体調は現在、すこぶる良いからである。沙世理の話が本当だとしても、身体のどこにも異常は感じられないのだ。


「あなたの体調が万全でいられるのには、それなりの訳があるのよ。土岐野くん、あなたは今、一日一回必ず飲んでいる薬があるわよね?」


「ぼくが昼食後に飲んでいる薬のことじゃ……。えっ? まさか、あの薬が──」


「そうよ、あの薬は免疫作用を高める手助けをする薬なんかじゃなくて、本当は副作用を押さえ込む薬なのよ。あの薬を飲まないでいると、あなたは確実に死ぬことになるの。──つまり『ステップ細胞』を使った遺伝子治療は、致命的な欠陥があった失敗治療だったのよ」


 沙世理は冷静すぎるくらい落ち着き払った口調で重大な事実を告げた。


「そんな……失敗治療だったなんて……」


 キザムは思わず自分の胸元に目を向けていた。今身に付けているこの制服の下の身体には、自分でさえ知らなかった秘密が隠されていたのだ。しかも命に関わるような重要な秘密が──。


「だって、ぼくはそのことをまったく知らなかったし……。そもそも、誰も教えてくれなかったし……」


「──所謂、大人の事情ってやつだよ。いつの時代も大人たちが考えることは変わらないからな」


 カケルが皮肉めいた口調で会話に入ってきた。


「もともと、『ステップ細胞』を使った治療法は世間の注目を浴びていて、もしも完成したあかつきには、ノーベル賞候補とも言われていたぐらいだったんだよ。それが単純に失敗しましたでは、とてもじゃないが済まされなかったのさ。周囲の期待もそれだけ大きかったからな。そこで悪い大人たちは一計を案じたんだ。『ステップ細胞』を使った治療法はまだ研究段階にあるとウソをついたんだよ。 簡単に言うと、キザムが『ステップ細胞』を使った治療を受けたことを、全て隠蔽したのさ。関係者全員にも緘口令が敷かれた。そうやって真相は闇の中さ。幸いにも『ステップ細胞』を使った治療はまだキザムしか受けていなかったから、隠蔽するにはいたって都合が良かったんだよ」


「そうか……。そのことがあったから……だから、カケルはぼくのことを初めから疑っていたのか……」


「ああ、そういうことだ……」


 カケルは言葉少なに答えると、正面からキザムの悲しげな視線を受け止めた。


 治療法に欠陥があったからこそ、カケルはキザムのことを最初から疑っていたのだ。同時に、だからこそ、カケルはキザムにその辛い事実を話せなかったのだ。そして、沙世理が治療法を開発した馳蔵の婚約者だったからこそ、カケルは沙世理のことを常に警戒していたのだ。


 ようやく、キザムは自分が置かれていた立場を理解した。自分が受けた遺伝子治療の裏には、ノーベル賞に絡んだ大人たちの汚い思惑が隠されていたのだ。


「なんだよ……。これじゃまるで……実験体にされるモルモットみたいなものじゃないか……。ぼくの身体なんて……どうでも良かったということなんだ……」


 自分の信じていた過去から現在に至る道のりが、音を立てて崩れ去っていくような気がした。正直、もう誰も信用出来なかった。いや、誰を信用したらいいのか分からなかった。


「悪いな、キザム……。遺伝子治療法に致命的な欠陥があったから、オレもおまえが怪しいと早合点しちまったんだ……。今さらこんなことを言ったところで、もう言い訳にしかならないけどな……。それにおまえを騙したことは消せないからな……。これじゃ、オレも悪い大人たちと何も変わらないよな……。しかも結果的におまえじゃなくて、流玲さんがゾンビカタストロフィーの原因だったんだから、なおさらだよな……」


 自嘲気味に言うカケル。


「あら、どうやら風上くん、あなたは知らなかったみたいね」


 沙世理が唐突に意味深な言葉をカケルに向かって放った。


「──えっ、先生、それはどういう意味ですか?」


「だって、今宮さんがゾンビカタストロフィーの原因だったとしても、全然おかしくないのよ」


 沙世理は何のてらいもなくはっきりとそう言い切った。


「──先生はオレの知らないことをまだ知っているみたいですね。むろん、今ここで全部話してくれますよね?」


 白濁しているカケルの目に、真相を究明しようとする強い意思の光が宿った。


「ええ、あなたに言われなくとも、はじめから全部話すつもりでいたわよ。それじゃ、風上くんだけじゃなく、土岐野くんもしっかり聞いてちょうだいね。──いい、今宮さんも土岐野くんと『同じような遺伝子治療』を受けているのよ」


 沙世理の口から更なる衝撃的な言葉が発せられた。

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