その6

 屋上までの階段をひたすら上っていくキザムとカケル。途中でキザムは何度もカケルの顔色を窺った。さきほどからカケルの状態が格段に悪くなっていたのだ。もはやキザムの支えなしでは歩けないほど、カケルはひどい状態になっていた。


 キザムの身体に全身を預ける形で、半ば引き摺られるようにして歩くカケルだったが、幾度となく咳を繰り返した。重病人特有の喉に絡まったような湿った音のするイヤな咳である。


「──カケル、大丈夫か?」


「ああ……ゴボッゲビュッ……だ、だ、大丈夫……ゲボッゲギュッ……心配、ないから……」


 返事の最中にも荒い咳が何回も混じる。呼吸するのが苦しいのか、右手で制服の襟元を緩める。それでも咳は止まらない。今にも口から出血しそうな感じだった。


 いよいよ覚悟を決めないとならないかもしれない。


 キザムはカケルの様子を見て、そう感じていた。しかし、いざそのときになったとしても、果たして自分に何が出来るのだろうかと考えてしまう。



 ゾンビ化したカケルをぼく自身の手で始末しないとならないのか?



 考えたくもないことだが、現実は待ってくれない。



 でも、ぼくにはゾンビを倒すだけの力なんて無いし……。



 そこまで考えたところで、ふと、カケルの服の下から見え隠れしている拳銃に目が向いてしまった。すぐに視線を外そうとしたのに、なぜか鈍く光る拳銃から目が離せなかった。


「……安心……しろよ……。キザムの手を……汚させることは……しないからさ……」


 キザムの視線に気付いたのか、カケルが顔を上げて、ニヤッと笑いかけてきた。カケルなりの精一杯の強がりだろうが、痛々しいことこの上なかった。


「ぼくだってカケルを撃ちたくはないから……」


 そう返事をすることしか出来なかった。カケルの気持ちを勇気づけられるような一言でも言えれば良かったのだが、残念ながら今のキザムにはそこまで頭が回る余裕がなかった。本心は泣かないようにするのでいっぱいいっぱいだったのである。


 二人はなんとか階段の踊り場までやってきた。これで階段も残り半分。ここを上りきれば、その先には屋上に続くドアが待っている。幸いにして、周辺にゾンビがいる気配は一切ない。これならば流玲も無事である可能性が高いと思われた。カケルの状態は依然として気懸かりだったが、胸中に少し希望と気力が湧いてくるのが分かった。


「カケル、あと半分だよ。この分なら、きっと流玲さんは屋上にいると思う。流玲さんと合流したら、すぐに校庭に避難しよう。カケルの身体を見てもらわないとならないから」


「──なあ、キザム……屋上に行く前に……お前に言っておかないと……ならないことがあるんだ……」


 唐突に、カケルが真剣な眼差しでキザムの顔を見つめてきた。カケルの額には脂汗がびっしりと浮かび、目は瞬きを繰り返している。カケルは今、体内に巣食う目に見えない邪悪な力に必死に抗っているのだ。


「いきなりどうしたんだよ……? なあ、まさか……冗談だろう……? カケル……大丈夫なんだよな……?」


 キザムは一瞬覚悟を決めた。しかし、カケルの口から出てきた言葉は──。


「心配するな……屋上までは何があっても……付き合うから……。オレが言いたいのは……キザムが流玲さんを助けたいと思っているのと同じように……オレもこのゾンビカタストロフィーの原因を……必ず突き止めて……必ず解決させたいと思っているっていうことさ……」


 この期に及んでもなおカケルは自分の体調よりも、ゾンビカタストロフィーという大惨事の拡大を止めることの方を優先的に考えているらしい。


「──ああ、それは分かっているよ。そのためにカケルはわざわざこの時代に来たんだろう?」


「そうだ……だから……もしも、もしも、ゾンビカタストロフィーの……げ、げ、原因が……ゲボッゲジュッ!」


 遂に恐れていた事態が現実のものとなった。カケルの言葉は最後まで続かなかった。言葉の代わりに、口から大量に血を吐き出したのである。カケルが着ていた白いワイシャツの前面が、一瞬で真っ赤な血飛沫に染まる。


「お、お、おい、カケル! カケル! しっかりしてくれよ!」


 キザムは慌ててその場にカケルの身体を横たえようとしたのだが、カケルがキザムの二の腕を痛いくらいきつく掴んできた。頭を左右に小さく振って、横たわるのを頑なに拒否する態度を示す。


「ダ、ダ、ダメだ……。ま、ま、まだ……まだ、オレは踏ん張れる……。こんなところで……意識を……失うわけにはいかないんだ……。オ、オ、オレは屋上まで行って……この目で確かめないと……ならないんだ……。そうじゃなきゃ……この時代に来た……い、い、意味がない……」


「カケル……」


 カケルの悲痛なまでの熱意に、キザムは言葉が見付からなかった。未来においてゾンビカタストロフィーにより世界がどのような結末を迎えているのか、カケルから詳しい話を聞いていないので分からなかった。だが、カケルがここまで固執するということは、何があっても絶対に成し遂げなくてはならないという強い意志を、カケルは胸に秘めているということなのだろう。



 屋上にはおそらく流玲しかいないはずだった。そこでカケルはいったい何を確かめようとしているのか?



 そこにはカケルにしか分からない深い事情がきっとあるのだ。だとしたら、ここにカケルを置いていくのは酷なことである。


「た、た、頼む、キザム……。オ、オ、オレを……オレを、屋上まで……連れて行ってくれ……」


 カケルが文字通り必死の形相で頼み込んできた。誰が見ても今のカケルの状態は異常でしかない。いつまで今の状態が保つのか分からない。いや、いつゾンビ化してもいい状況である。こうして一緒にいることだって危険極まりないのだ。キザム自身の身の安全を考えたら、カケルと離れるのが理想的であった。


 しかし、キザムはカケルに寄り添うことにした。キザムはカケルの願いを聞くことにした。


 カケルと知り合ってからというもの、いつもカケルに力を借りてばかりいた。いつもカケルに頼りきりだった。自分が病人だからという言い訳を使って、カケルに甘えっぱなしだった。


 だからこそ──今度は自分がカケルの力になりたいと思ったのである。


「分かったよ。二人で頑張って屋上まで向かおう──」


 キザムはカケルの身体を抱え直すと、再び階段を上がり始めた。そして、十分近く時間を掛けて、ようやく階段を上りきった。


 屋上に出るドアに手を伸ばした。ドアノブを掴むと、ゆっくりと捻った。ドアは鍵が掛かっておらずに、簡単に開いた。


 視界がいっぺんに開ける。青空の下に広がる屋上が一望出来た。


 そこにいた。


 こちら側に背を向ける形で、女子生徒がひとり立っていた。その後ろ姿を見間違うはずはなかった。


「流玲さん……」


 思わずつぶやきが口を突いて出ていた。

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