その4

 綿旗は廊下に倒れこんだままで、恐怖のあまり身体を動かせずにいるようだった。自らに迫ってくる恐怖に対して、ただただ怯えるのみだった。普通の人間がゾンビを前にしたら、それも当然の反応といえた。


「綿旗! 諦めるんじゃねえよ!」


 イスを逆さに持った郷力が先頭のゾンビに突っ込んでいく。イスの脚でゾンビの胴体をしっかり固定して、ゾンビからの攻撃が当たらないように防御する。


「おい、早く立ち上がるんだ!」


「わ、わ、分かっているけど……腰が、腰が……」


 綿旗はその場で立とうとするが、思うように腰に力が入らずに、なかなか立ち上がれない。どうやら腰が抜けてしまっているらしい。


「自分の置かれた状況が分かっているのか? 自分の命が懸かっているんだぞ! 力を入れるんだ!」


 村咲が綿旗に迫っていた別のゾンビをイスで懸命に防御する。


「分かっているさ! さっきからずっと力を入れているけど、全然立てないんだよ!」


「綿旗さん、しっかりしてください! このままじゃ、ゾンビに喰い殺されますよ!」


 キザムは綿旗の傍まで来ると、綿旗の両手を取って、立ち上がらせる手伝いを始めた。


「おい、最後の一体がそっちに向かったぞ!」


 郷力が怒鳴り声を張り上げた。


 最後のゾンビが綿旗の方に近付いてきた。完全に綿旗を獲物と認識している。


「最後の一体はぼくがなんとかします!」


 キザムは綿旗を立たせるのを一旦中断すると、廊下に置いたイスを手にして、ゾンビにイスの脚を向けて自ら突き進んだ。


「お前らなんかに絶対に喰われたりはしないからなっ!」


 キザムの持つイスの脚と脚の間に、ゾンビの胴体が上手い具合にすっぽりと納まった。ゾンビの動きが瞬間的に止まる。


「やったぞっ!」


 だが喜んだのも束の間、ゾンビがぐうっと身体ごと押し込んできた。たしかにゾンビは動きこそ緩慢で遅いが、その力は人間など遙に凌駕するほどなのだ。それを恐怖とともに、今さらながらに思い出した。


「綿旗さん、早く立ち上がって逃げて下さい! こっちは長い時間は保ちそうにないです!」


 キザムは自分と同じようにゾンビを引き止めている村咲たちの様子に目を向けた。二人とも必死の形相でゾンビを押さえ込んでいるが、じりじりと後退を余儀なくされている。このままではゾンビの力に押し切られるのも時間の問題のように思われた。



 ヤバイぞ……。勢い込んで助けに来たのはいいけど、絶体絶命のピンチじゃないか……。



 キザムの持ったイスに行く手を阻まれたゾンビが、身の毛もよだつような飢餓感に満ちた顔をキザムの方へ伸ばしてきた。キザムの目の前で血の色で醜く染まった歯をガチガチと鳴らす。噛み付かれたら最後、骨ごと喰い千切られそうな勢いである。


 今までで一番の恐怖を感じた。ゾンビの口から死の息吹を顔面に吹き付けられている気分だった。生きた心地がまったくしなかった。ちょっとでも力を緩めようものなら、一気にゾンビに押し倒されそうだった。



 本当にマズイぞ……。手が痺れてきた……。もう保ちそうにない……。



 萎えそうになる気持ちをそれでも頭の中から消して、再度腕に力を込める。そのとき、視線の先に勝機が見えた。



 そうか。アソコからこいつを突き落とせばなんとかなるかも──!



 キザムは綿旗に目をやった。ようやく腰に力が入ったのか立ち上がっていた。しかし逃げずに目の前のキザムたちの様子に釘付けになっている。おそらく、自分だけ先に逃げ出してよいのか迷っているのだろう。


 綿旗が逃げ出さずにいてくれたのは千載一遇の好機だった。


「綿旗さん、手伝ってください!」


 キザムが名前を呼ぶと、綿旗はすぐにキザムの元に助けに来てくれた。


「廊下の窓からこいつを突き落とします」


「えっ? はあ……? ああ、そういうことか。なるほど、分かった!」


 綿旗は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、キザムのやろうとしていることを瞬時に理解してくれたみたいだった。


「一緒にイスを持ってください!」


「任せておけ!」


 綿旗がイスの背もたれの部分を掴んだ。


「窓を開けている余裕はないので、このままガラスを割って、そのまま突き落としますよ!」


「分かった。一気に片付けてやろうぜ!」


 一時の恐怖から開放されたのか、今は俄然やる気が出ている綿旗だった。


「一、二の三でこいつをイスごと持ち上げますよ!」


「オッケー。合図はそっちに任せたぞ!」


 キザムはイスの背もたれをぐっと強く掴み、準備に入った。


「一、ニ──三!」


 キザムはイスをぐいっと上方に持ち上げた。ゾンビの足が廊下から浮かび上がる。ゾンビの力はたしかに異常な強さだったが、体重自体は人間のときと何ら変わりがないのだ。持ち上げるだけならば苦労はいらなかった。


 宙に持ち上げられたゾンビが手足をなりふり構わず動かす。イスが前後左右、さらに上下に揺らされるが、二人の力でなんとか押さえ込む。そして、そのままイスもろともゾンビの身体を窓ガラス目掛けて叩き込んだ。



 ガギャジャンッ!



 耳障りな窓ガラスが割れる音をBGMにして、ゾンビがイスとともに窓外に消えていく。


 一瞬後、肉体が潰れる生々しい音が下から聞こえてきた。中庭に設置されている花壇の間を走るコンクリートで出来た道の真上に落ちたみたいだ。


「よしっ! これで一丁あがりだな!」


 窓枠だけが残された窓から中庭を覗いている綿旗が勝利の声をあげる。


「綿旗さん、まだ二体残っています!」


 キザムは勝利の余韻に浸る間も無く、すぐさま村咲と郷力の助けに向かう。二人ともゾンビを押さえ込むのがもう限界そうだったのである。


「よし、郷力の方はおれに任せろ!」


 綿旗が郷力の助けに入る。キザムは村咲の方に向かった。


「村咲さん、イスごとこいつを窓の外に突き落としますよ」


「分かった。やってみてよう」


 キザムは先ほどの要領で再度イスごとゾンビを持ち上げようとしたが、そこで突然ゾンビが狂ったように身体を無茶苦茶に動かしてきた。


「えっ? なんだよ……? 急にどうしたっていうんだ?」


 ゾンビの動きが急変した為、イスを持ち上げるタイミングが掴めない。


「おい! なんだかヤバイぞ!」


 郷力の手助けに入った綿旗も同じような状況に陥ったみたいだ。


「分かったぞ! こいつらにこっちの作戦が読まれているんだ!」


 村咲が真っ先に解答にたどり着いた。


「えっ、そんな……。ゾンビのくせに頭を使うなんて……」


 キザムは目の前で暴れているゾンビに目をやった。ゾンビは何も考えずに、ただ飢餓感に苛まれているだけという固定観念で行動していたが、それが失策に繋がってしまった。


 これで事態は絶体絶命のピンチに逆戻りである。


「このまま力比べが続いたら、こちらに分が悪いぞ」


 村咲が冷静に状況を分析するが、その顔にははっきりと焦燥感が浮いている。


「窓から突き落とすのを諦めて逃げるんだ!」


 背後からカケルのでかい声が聞こえてきた。カケルが言う通り、こうなったら体力が残っているうちに逃げる以外他に手はなかった。


「村咲さん、イスを強く押し込んでこいつを廊下に倒したら、後は──」


「全力で逃げるしかないな」


 村咲もキザムと同じ考えに行き着いたらしい。


「郷力、こいつらを窓から突き落とす作戦は取り止めだ! こいつらを一度廊下に押し倒したら、あとは防火シャッターまで全力ダッシュだ!」


「くそっ! それしかねえだろうな!」


 郷力も現在の状況がいかに危機的であるか自覚しているらしい。キザムと村咲の案に反対することはなかった。


「よし、それじゃ、全員息を合わせてやるぞ!」


 村咲がその場にいる皆に言い聞かせるように声を張り上げた。


「僕がカウントを数えるから合わせてくれ。──三、ニ、一、ゼロ! 今だ! 全力で押し込むんだ!」


 村咲の声を合図にして、キザムは全身をつかってイスを強く押し込んだ。キザムと村咲の火事場の馬鹿力が功を奏したのか、ゾンビが一気にぐぐっと後退していく。


「このまま廊下に押し倒すぞ!」


「分かりました!」


 二人は力を振り絞って駄目押しでゾンビの身体を強く押し込んだ。力負けしたゾンビが体勢を崩して背中から廊下に転がる。


「よし、今がチャンスだ!」


「村咲さん、逃げましょう!」


 キザムは回れ右をすると、防火シャッターに向かって全力で駆けていく。すぐ隣には村咲の姿がある。郷力と綿旗がどうなったのか気にはなったが、今は自分たちが逃げるので精一杯だった。


「よし、もうすぐだぞっ! ここまで走るんだっ!」


 前方からカケルの声が聞こえてきた。


 防火シャッターはつっかえ棒代わりにした机のお陰で、廊下から数十センチのところで降りきらずに止まっている。その隙間にキザムは全身で飛び込んでいった。


「助かった!」


 防火シャッターを潜った瞬間、思わず口から歓声が出ていた。


「よし、僕も無事だ!」


 村咲も逃げ込んできていた。これで残りは郷力と綿旗である。


「危なかったぜ!」


 次に綿旗が防火シャッターを潜った。


 残すは郷力ひとり。だが、ここで計算外のことが生じた。この中で一番体格の良い郷力であるが、どうやら走るのは苦手だったらしい。郷力は巨体を左右に揺らしながらまだ廊下を走っていた。その背後からは二体のゾンビが追いかけてきている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る