新細腕繁盛記

おおもり さとし

第1章 ー真澄ー 1.銀座8丁目

そのビルは大都心の一画にあった。

「いらっしゃいませ〜」

「1人なんですけど」

「はいどぉ〜ぞぉ〜。お待ちしておりましたわぁ〜。こちらの席にどぉ〜ぞぉ〜」

男は"席"と呼ばれた30センチメートル四方のテーブルの横の50センチメートル四方のスペースに大きな体を潜り込ます。

そしておもむろにリックサックを背から降ろし、壁に打ち込まれたフックにそれを掛ける。

さらに上着を脱ぎ、やはり壁に掛かっているハンガーにそれを吊るす。ワイシャツのボタンを外し袖を折り返し、右、左と腕まくりしていく。

横綱の土俵入りのような一連の作法が終わるか終わらないそのタイミングを見計らって

「お飲み物は何になさいますかぁ〜?」

と前出の女性が男に声を掛ける。

「ホッピークロ」

「は〜い、かしこまりました〜」


ここは東京都中央区銀座8丁目と呼ばれる一角だ。"ギンザ"と呼ばれる地名は日本中にあまたあるが、普通銀座と言ったら中央区銀座のことだ。

地方出身の人には銀座といえばファッションの最先端で、高級なクラブがいっぱいあって、着飾った女性が闊歩するというイメージだろう。

確かにそういう一面はある。

しかし現代ではそんな高級なクラブで飲む人も、その高級クラブを経営する人も次第に高齢化し減って行く。


「は〜い、おまちどうさまでーす。ホッピーセットの黒ですね〜。今日は自家製のおいしいアンキモがありますけどぉ〜」

「じゃ、それ。あとおでんちょうだい」

「はーい、ありがとうございま〜す」

「真澄ちゃーん、熱燗つけて〜」

「はーい」

真澄と呼ばれた女性は細々しく動き回りお客の男性たちに酒と料理を提供していく。

「ショウちゃん、佐藤さんのソーセージできてるかしら?」

「アッ、ママ今出ます」

「佐藤さんお待たせしちゃってゴメンなさいね〜。はい、ショウちゃんのアツアツソーセージでーす。アラッ、お待たせしすぎて先っぽからジューシーな汁が出ちゃったわー。ウフフ」

佐藤という男性は、真澄の美しさと、まさかこんな美しい女性が下品な下ネタを言うことに、そのギャップに一発で参る。


読者の方には伝わりにくいが、実はこの居酒屋"真澄"ではお客は立って飲み食いしている。いわゆる"立ち飲み"と呼ばれる業態の店なのだ。

なぜお客は立ってまでして飲みたいのか?

例えば想像していただきたい。

食事メニューの種類が豊富で安くておいしくて、しかも一人前の量にすべての料理が揃えてあって、甘い辛いの個人差までお客ごとに加減してくれて、最後に酒自体の値段が安い。そんな店があったら入ってみたいと思わないか?

さらにさらに店内では似たような紳士たちが紳士的に時事のスポーツの話題から日本経済の問題までをトツトツと話ながら、さも満足げに好みの酒をおのおののペースで空けていく。カラミ等はご法度。ルールを守れないお客は女将に出禁を宣告される。でもこんないい酒場を誰も失いたくないからたいていが黙ってテレビを見ながらチビリチビリとやっている。

さらにさらにさらにそれで女将が美人で話が上手、前述のような品の無いリップサービスまでしてくれる。

みんな絶対そんな店で飲みたいでしょう。

ただし椅子がない。それだけだ。

そんな店が中央区銀座8丁目の一角に存在する。

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