帝都大図書館にて。 ―悠久なる魔女の楽園―
宵闇むつき
第一章
帝都大図書館、地下六階にて
周囲には、見上げるほど背の高い書架がどこまでも並び、ぎっしりと本が収められている。
帝都大図書館――
帝都中央区南部に建つこの場所には、あらゆる書物が存在する。
地上三階、地下十階からなる巨大な建物は、今も下へ下へと自己増殖し、蔵書を増やし続けているのだ。
書を愛する者にとっての楽園、理想郷。と同時に、帝都の知識と技術発展を支えてきた場所であり、年間を通して多くの利用者が訪れる。
その地下六階の中央区画を、俺は興味深く歩いていた。
書店のものとは違う、独特の匂い。明るすぎず、暗すぎず――地下六階という深い場所でありながら、空気は爽やかだ。自然由来の魔法だから成しえる奇跡だといえよう。
話では、この階のどこかに目的の人物がいるはずだ。問題は、どうやって探すかなのだが……と考えながらウロウロしていたところで、本棚の向こうから出てくる人影があった。
十代半ばと思しき少女だ。柔らかな癖のある金茶色の長い髪に、傷一つない白い肌。垂れ目がちの瞳は深い琥珀色で、薄い唇は桜色をしている。可愛らしく、美しい方だ。
足首まで隠れるロングワンピースに、長袖のカーディガンを合わせていて、袖が少し余っていた。
目を奪われる。
と、彼女が俺に気付き、興味深そうに微笑んだ。
「――ようこそ、帝都大図書館地下六階へ」
「は、はじめまして。貴女が、この大図書館の魔女殿であられましょうか」
「いかにも、私が魔女だ」
自信に満ちた笑みに、思わず見惚れてしまう。美人を前にのぼせてしまうのはいつものことだが、普段以上に頭が動かなくなった。
魔女殿が俺の前まで歩いてくる。小柄だ、と思ったところで、問いが来た。
「それで、君は何者かな? その立ち振る舞いを見るに、軍人であろうと予想するが」
「お気付きでしたか」
警戒されないようにと、今日は軍服ではなく私服で参じたのだが、魔女殿には筒抜けであったようだ。流石である。
「お見逸れしました。魔女殿には全てお見通しである、という話は本当だったのですね」
「いやいや、買い被りすぎだよ。私は本の中のことしか知らない」
苦笑気味に笑う姿も美しい。あっさりと告げられたその言葉は事実であろうし、彼女の言う『本』とは、この帝都大図書館に収められたあらゆる本を指すのだ。それはもはや、全知であると言っても過言ではないだろう。
人類を新たな段階へと導いた、知識の泉――魔女。
話には聞いていたが、こうして対面するのは始めてだから、緊張が高まるのを感じた。
話さなければならないことは沢山あるのだが、最初の一言が出てこない。ここに来るまでに説明する順番も決めていたのだが、魔女殿の姿を見た瞬間に全て吹き飛んでしまった。こんなことは初めてだから余計に焦ってしまって、どうしたものか。
内心泡を食っていたところで、魔女殿がふと何かに気付いた様子を見せ、俺の左手側へと顔を向けた。
見れば、十メートルほど先の書架に異変が起きていた。
収まっている本が一冊、独りでに身をよじり、顔を出して床へと落ちたのだ。
まるで手品のような状況だが、奇術めいていたのはその後だった。
床へと落ちる寸前、本がピタリと空中に静止し――糸で引き上げたように、すっと俺達の目線の高さまで浮かび上がる。
そして表紙が開かれ、勢いよくページが捲られると同時に、本の正面に異界の文字を用いた魔法陣が展開。それが本を取り込み、灰色の光を放ちながら一瞬で巨大化していく。
突然の出来事に、不味いと思った時には遅かった。
魔法陣が水面のように揺らぎ――そこから、巨大な獅子が飛び出したのだ。
「――ッ!」
息を飲む。
灰色の毛並みを持つ肉食獣は、猫科特有のしなやかな動きで着地すると、俺達へと視線を向ける。低く獰猛に唸り、口端から涎を垂らすその姿を見るに、こちらに狙いを定めたのは確実だった。
人のそれとも、野生の猛獣とも違う、魔なる物の殺意。
あれが、あれこそが魔物か。
俺は自前の魔法を使い、虚空から軍刀を取り出すと、魔女殿の前へ出た。
「下がっていてください、魔女殿。ここは俺が対処します」
「ほう、魔物の相手が出来ると?」
「はい。俺はその為にここへ来たのです」
「その為?」
魔女殿の疑問に応えるように、俺は剣を抜く。
扱い慣れた、刃渡り八十センチの両刃の直剣である。
すっと頭が冷え、思考が切り替わる。
それを感じ取ったか、魔物がにわかに警戒するそぶりを見せる――が、遅い。
この距離なら、十分取れる!
「――斬る!」
だが、俺の気迫は空回りすることになる。
いざ踏み出さんとした瞬間、三メートルほど先に、突如人影が降り立ち――その姿を見失うほどの速度で、影が魔物へと突っ込んで行ったのだ。
そして、
「――殺す」
響いた声が耳に届いた時には、魔物が両断されていた。
真ん中から綺麗に真っ二つ。内側へと崩れるように倒れた巨体からは、しかし血が一滴も流れず、標本のように内臓が崩れ落ちていく。と同時に、その立派なたてがみや尻尾など、獅子の体が末端から色を失い、白く小さな紙片――書物の切れ端へと変化した。
紙片は独りでに空へと舞い上がり、緩く渦を巻きながら、魔女殿の方へと飛んでいく。そして彼女の掌の上で淡く光り輝きながら、一冊の本へと戻っていった。
これが、書の魔物。生物ではあるが、生死の概念がなく、斬られればまた元の本に戻るという、封じられた存在。
日本でいえば、妖怪絵巻から妖怪が出てくるようなものだ。だが、日本のそれが想像の産物であるのに対し、異世界の本には本物が封じられている。実在する脅威を書に記し、封じ込めてあるのだ。
説明は受けていたし、魔物を想定した鍛練を何年も積んできた。とはいえ、見た目はただの上製本から巨大な魔物が現れ、一瞬で斬られ、また本に戻ったという現実に驚きを隠せない。何より、一連の流れがあまりにも唐突で、理解が追いついていなかった。
魔物を切り伏せた人物が、それと感じさせない、平然とした佇まいでやってくる。
凛とした麗人だった。
俺と同年代だろうか。十八歳前後で、すらりとした立ち姿には寸分の隙もなく、凛々しさと可憐さを併せ持っている。腰まで届く緑の黒髪は癖一つなく、彼女の美しさを際立たせていた。
司書の制服である白いシャツに黒いジャケット、ネクタイ、同色のタイトなスラックス。細い腰には皮製の太いベルトが巻かれ、左腰に差した鞘を支えている。右手には日本刀――刃渡り二尺五寸ほどの真剣が握られていた。
彼女の黒々とした目が、俺を捉えた――その瞬間、
「――ッ!!」
凄まじい殺気に射抜かれ、体が反射的に臨戦態勢を取ってしまっていた。
先の魔物とは比べ物にならない、想定を遥かに超えた威圧感。
五年ぶりに感じる、死が形を持って近付いてくる感覚。
だが、司書と敵対する訳にはいかないのだ。
「ッ、」
息を吐く。
息を吐く。
息を吐く。
肺を空っぽにして新鮮な空気を吸い込み、心臓を締め上げるような緊張感の中で剣を下げ、俺は居住まいを正した。
「じ、自分は――」
「問答無用。――殺す」
刹那、女性の姿が消え失せ、一瞬で目の前にまで距離を詰められていた。
白刃が煌く。
だが、背後には魔女殿がいるのだ。彼女に被害が及ばないよう、俺はその場で軍刀を構え直し、迫る凶刃に剣を合わせた。
硬質な音と共に火花が散り、軍刀に施してあった魔法武装がいくつか弾けて、七色に輝きながら散っていく。それは剣の強度を上げるもので、一合打ち合った程度で壊れるものではない。度肝を抜かれるとはこのことだった。
「は、話を聞いてください!」
「黙れ。司書は読む目しか持たん」
「横暴な!」
膂力に任せて日本刀を弾き返し、距離を取ろうとした瞬間には相手の姿が消えている。その殺意、立ち振る舞い、何よりも剣の鋭さに痛烈な既視感を覚えながらも、俺は前に飛び出し、書架の間を駆け抜けた。
姿が見えずとも、恐ろしいほどの殺意が首に突き刺さるのだ。振り返りざまに剣を振るって、次の一刀を受け止めた。
そのまま三合、四合と打ち合いを重ねる毎に魔法武装が弾け、仕舞いには刃と刃がぶつかり合う硬質な音だけが響きだす。
ひりひりと、空気までも焦がすような殺意との剣戟は――しかし、気付けば心地良さすら感じられるものに変化していた。
あまりにも、お互いの剣の型が似通っているのだ。一手先を読めるほどではないが、それでも思った場所に一刀が来る。剣を打ち込む。
それは相手も同じだったようで、幾度目かの鍔迫り合いとなったところで、お互いの顔に疑問符が浮かんだ。
目が合う。
だから、俺達は同時に距離を取り、
「「――ッ!!」」
踏み込む足も、振るう腕も同時だった。
剣と刀の差異など問題ではない。
ただただ、相手を斬るという決意の強い方が勝つ。
そういうものだ。
そういう教えだ。
ならばこそ――互いの剣と剣が触れ合う瞬間に、無理矢理に静止する。反動で体が軋むが、気合で耐えた。
だが、対する彼女は平然と剣を止めている。そんな鬼人じみた芸当が出来る人間など、この世に一人しかいない。
「――姉さん」
「……誠治か。嘘だろう?」
「嘘ではありません。……あれから五年経ちました。俺も成長します」
「縦に伸びただけだ。剣の腕は変わっていないな」
「手厳しい……。ですが姉さんこそ、あまりにも問答無用すぎませんか。いくら片斬(カタギリ)とはいえ……」
「そうせざるを得ない理由があった。……お前は本当に、私を惑わせるな」
どういうことだろう、と思いながらも、お互いに剣を収める。
と、通路の奥で見守っていた様子の魔女殿が、こちらへとやってきたのが見えた。
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