ウィア

初瀬みちる

人の道

「おい!早い事、こいつを殺しちまおうぜ!」

 男がわめきだす。それも仕方のないことだ。もはや、この場で、正気を保てるのは真に強いものだけだろうな。そんな人が、こんなところにいるとは思えない。俺含めて、強いと言える人はいないのかもしれない。この、異常な空間の中で、我を保ち、意思のままに生きる人間なんて人間とは思えない。

 現在、俺含めた男女50人ほどは、ある一つの出来事に関してもめにもめている。

 場所はとある食堂。缶詰と医療器具が所狭しと並んでいる。窓という窓には新聞が張られ、さらには、机が乱雑に積み重なっている。扉は何重にもロックして、ちょっとやそっとの力じゃ開かないようになっている。新聞の間から差し込む光と、時計の時間で朝か夜かを判断できるが、それ以外は何一つとして時を指すものはない。

 今は、何も外にはいないと思われる。思われるというのはその通りで、もしかしたら、外に出たら、目の前にいるのかもしれないし、いないのかもしれない。奴らは、朝も夜も関係なく、肉を欲する。血と肉によって奴らは生きながらえ、仲間を増やし、さらなる仲間と肉を求め彷徨する。アウトブレイクしてから、おそらくは2ヶ月がたったであろうおととい、生存者の一人の女が足を噛まれた。今の所わかっているのは、部位によって感染速度は変わっており、足だと長くて2週間は持つ。上に行くのに比例して早くなる。彼女は足首であったがために、今は、軽い倦怠感だけなのだが、日が下るにつれて、倦怠感だけでは足りずに、高熱、嘔吐、下痢、最後の方になると、体のいたるところが腐食していく。その姿は見るに耐えない。

 今のところ、説明できるのはこれだけである。これ以上の説明は不要であるし、どうせ伝わらない。

 俺は、汚くなった上着のポケットの中にしまっている警察官がまだていた(死体が)拳銃と玉をとっていたがために、有り余った銃弾を(正確には8だ発ほどしか合計でない)コロコロと遊ばせながら、一昨日から続いている議論を眺めていた。

 二つに分かれた議論は平行線を保ち、片方は、生き残るために、危険因子は早くに排除すべきという考え。もう片方は、倫理的観点から、殺すことを拒否し続ける人々。いずれにせよ、殺したがっている方も、生き延びらせたい方も、頑固に、

「どうなるかわからない」

 意味は違えど、言っていることは同じ状態である。俺は、誰にも伝えていない秘密の拳銃をこの場で出そうとも考えたが、場をさらにややこしくするだけなので、大人しくしている。

「はやいとこ、やっちまおうぜ!こうやって、不毛に話あったって、こいつは俺たちを食うに決まってる!外にいるあいつらと同じになるんだぞ!お前らだって知ってるはずだ!中には、大切な人をこいつらに喰われただろ!?」

「まだ、美香はあいつらの仲間じゃない!」

「同じだよ!そうやって、情けをかけ続けて、さらに犠牲者が増えるんだぞ!」

「人間を殺して楽しいの!?」

「どうして、そんな話になるんだ!?」

 女の友達は女を必死に介抱している。足からの出血は止まりはしたが、日に日に弱くなっていってるのがわかる。平行線のまま終わることを知らない話し合いは昼も夜も関係なく続いた。いつのまにか分裂しているかの生存者達は、こんな異常事態に対しても倫理を持って制しようとする愚かさに耐えかねるものもいた。

 1週間も経つと、女は、話すこともままならず、高熱と嘔吐、下痢に見舞われていた。この状況に対して、殺しを推奨する男は、大声で、

「外にも奴らがいて、中にもやつらの仲間がいるんじゃ、この先不安しかないね!」

 なんて言う、喧嘩にしかならないことを言い続けていた。50人もいるのに、誰も決断を出せなかった。理由は簡単である。自身が殺人を犯したこと、この事実を目の当たりにするのが怖いからである。かの男でさえもだ。調理室にあるナイフで心ゆくまで刺し殺せばいいものを、議論というお題目で役にも立たない話し合いを永遠と続けている。

 俺は、どうしたことか、議論の最中にポケットの弾丸を転がすのをやめて、男に近づいて聞いた。

「どうして、女が見ていないうちに殺さないのか?」

 と。男は、俺を見る目に明らかな怯えがあった。男は怖いのだ。この男は自身が頭を張っているが、その実、自身の手は汚さない。狡猾なのではなく、ただの恐怖だ。そして、俺は、介抱している女のところに行って聞いた。

「どうして殺したくないのだ?」

 女は、半狂乱の状態で無茶苦茶に喋った。かわいそう。この一言に尽きた。これ以外の回答がなかった。つまりは、同情だ。この事実を突きつけてやるのは簡単である。そのためには、2週間待たなくてはならない。自身ではなく、介抱している女以外の誰かが噛まれるしかない。ならば、自身の理論がこの状況下でいかに役に立たないのかがわかる。この話は簡単である。1を殺して49を生かすか、じわりじわりと人を殺すか、そのどちらを選ぶか。

 俺は、介抱している女に聞いた。

「倫理観を持ち出してこの理論を水かけ理論にしているが、次の犠牲者が生まれる準備をしているのを理解しているのだろうか?救い用もないものに施す時間があるのなら、他の問題を解決すべきではないだろうか?」

 女は言った。

「倫理観を忘れたりすれば、その瞬間から、人間ではなくなるわ!倫理観があるからから、人間が人間たらしめるんだわ!」

 と、だから、俺は、冷静に、今はなき社会を風刺しながら言った。

「ならば、今までの社会を回していたのは人間ではないんですね?だって、そうじゃないですか、あなたの理論が正しいのなら、ベンザムのような、功利主義を唱えるものも生まれませんし、資本主義が功利主義の改変であることは白日の下に晒された事実では?社会を回すのは、例えそれが小さかろうが、倫理を持ち出せば、解決する話も解決しないことを理解していないのですね?この茶番劇の問題点は、誰も、手を汚したくないこと」

 俺は、続けて、言ってやった。

「私が殺しましょうか?」

 空気が希望ではなく、ある種の絶望に変わった。俺は分かっていた。こいつらは、心の中で心底、自分はまともだと言い聞かせているのだと。不毛な議論をしている中で、自分が自分であることを確認していたんだ、と。

「あなたのような、ソシオパスが、社会を乱しているんでしょ!?」

「ほら、これだ。君たちは、自分の倫理観とは違う人が現れた時…、大衆の考え方からされたものをソシオパスだの、サイコパスと言って罵り、差別する。君たちの中での倫理とは、差別を助長するだけで、抑止にはなりやしない。いい加減認めたらどうだ?目の前の障害を排除しなくては、この女のような犠牲者が増えるのだと。そして、君たちがしたくなくてたまらないことを私がしてやろうと言っているんだ、何か文句があるのかい?」

「人でなし!」

「議論をしているんだ!論理的に話しなさい!」

 二、三歳は年上であろう介抱している女に、まるで、先生のように怒った。気恥ずかしさは後から来たが、その時は…、その時ほど、生きるのに必死な時はなかったのだろう。そう、俺も怖かったのだ。いつどこで死ぬかもしれない恐怖に押しつぶされそうになっていたのだ。そのためには、目の前の障害を排除しなくてはいけなかった。

「…でも、かわいそうじゃん…」

「同情の末にあなたが死ぬのなら構わない。でもね、こっちに被害が被るようなら、仲良くなんていう幻想を壊してあげる。あなたと、そこで、死にかけている女を殺してあげる。俺たちは、生きるのに必死なんだ。もう、死にかけている奴は殺すしかない。そこに、倫理なんていうくだらないお話を持ち出してくるな。死にたいなら死にたいとはっきり言え」

 女は、泣き出していた。それでも、言わなくてはいけない。最初にいた男は、言葉を失い、ところどころから、非難の声も聞こえる。こんな異常事態でも、馴れ合いを続ける。最悪だ。これがアメリカとかなら、迷わず撃ってくれるのだろうけど、馴れ合いと、事勿れ主義を行い続けたこの国のツケがこういう事態で起こるんだな。いつだってそうだ、この国を回したのは、前へと進んだのは、こんなふうに、自分を誰よりもクズに持って行き、他者の団結力を高める。こんなやり方しか知らない俺は、不幸でしかない。でも、まだ足りない。まだ、ここで終わってしまっては、同じことで何度も議論し合う。そして、取り返しのつかない大きな失敗が生まれる。命が関わってるんだ。この人たちを救うには、その根底にある、腐った因習を砕くしかない。

 俺は、一通り罵り終えた後、一人のスペースに逃げるように入り込んだ。食堂の角に体育座りでぼーっとし始めた。特にやることのない日々であるがために、そういうことがだんだん上手くなっていく。

 こうなる前の生活が思い出せなくなる時がくる。2ヶ月間、服は変えるが、それでも、たかが知れた数で、自分の荷物の中には、私服に混じって、高校の制服がある。一番汚れて、水で洗っても取れない赤いシミがこびりついている。ワインならばまだ良かったのだが、この赤いシミは親友と呼んでいた男の首をはねた時についた血。頸動脈から勢いよく飛び出した血は、地面に池を作った。教室の真ん中にできた池は、机の配置に沿って流れていく血は川に思えた。親友とは、連絡を取り合って高校で落ち合って、逃げるつもりだった。でも、親友は感染していた。戒厳令が出されたから2週間。自衛隊の鎮圧は失敗し、緊急隔離地域では暴動と衝突が続き、人も奴らも死の要因でしかなかった。家族は、家に帰った時には、肉の塊になっていた。俺は、すぐに食料と生活用品をできるだけかき集めて、学校に隠れていた。自分の一番知っているところに隠れて、生活していた。そして、もう腐食が始まって、意識が朦朧としている親友の、最初で最期の頼みごとをされた。笑い話ではなく、真面目な形で。俺は、泣きながら、笑い話をしながら、別れの言葉を言わずに、言わせずに、手に持った唯一の武器であった包丁で刺し殺した。そして、念のため、首をはねた。

「おい、坊主、大丈夫か?」

 殺し派の男が目の前で立っていた。どうやら、寝てしまっていたらしい。目のあたりが乾いている。泣いていたのかも知れない。鼻も軽く詰まっている。

「ええ、すみません。はい、どうされましたか?」

 この食堂は、はねた後、場所を移した。人の目に止まらなように動き、奴らの動きを考えながら、行動している最中に、警官の銃を剥ぎ取り、ここに保護された。助かったことに、荷物の中までは詮索されなかった。拳銃だけでなく、小銃があることがバレてしまうからだ。こんなものが見つかったら、殺しの世界になる。

「いや、さっきの、感謝を伝えたくてな。でも、どうするよ、あの女は、頑固として首を縦に振らないぜ。しかも、さっきので、さらにだ」

「わかってます。だから、こっちは、こっちで動きます。ここには、48人もの命があるんですから…」

 俺は、ポケットの中の弾薬の先端を触り続ける。

「そうか、君が彷徨っていた時、みんなで話し合ったんだ。彼は、感染しているのかどうかということで…。でも、それは、俺が反対した。君の目には生きる力があったから。また、すぐにここから出ようと思ってるのだろ?」

「ええ、まあ、ここも居心地いいのですが、ほとぼりが冷めるまで一人で動いた方が、厄介ごとに巻き込まれないですみますから…」

「だな」

 男は、軽やかな足取りで自分の場所に戻っていった。

 さて、こことも、今日限りで去ろう。でも、ここの人たちには生きて欲しい。だから、去る人間にふさわしい仕打ちを自身に与えよう。感謝されるのは本当に生きたいと考える人からだけでいい。

 俺は、音がかからないようにトイレで、リボルバーのシリンダーに弾を詰め込んで置いた。全6発。でも、生き残るのには十分だ。まだ、小銃はあるし、二、三日の間くらいなら困ることはないだろう。寝床は、拠点となりそうなところ…。まあ、それはおいおい探そう。食料は、ここからいくらか拝借するとして、よし、なんとかなるな。

 ポケットにリボルバーを入れて、注意深く自分の席に戻った。辺りを見渡すと明らかに憔悴している。そりゃそうだ、内にも外にも危険因子は存在するのだから。いつ、自分の目の前で誰よりも死に近い存在に噛み殺されるか…。あの、憔悴スピードを見る限り、持って後、二、三日。やはり、感染には個人差がある。今日の夜しかない。正確には、朝方だが…。真夜中に出て、夜目の効かない中、やつらに囲まれるのは避けたい。あと、奴らは、夜に活発的になる。今のうちに寝たかなくては。荷物もまとめた。食料ももらった。武器はある。あの男に向けて何か書き置きデモするべきか。いや、いらないか。

 ここでの最後の晩餐を済ました俺は、誰とも話すことなく自分に与えられた寝床に潜り込んだ。寝袋は2ヶ月も使っているため、中々快適のいい場所になっている。臭いさへ気にしなかったらだが。しかし、寝られる場所があるのは気が楽でいい。ここをでたら、また一人で全てをやりくりしなくてはならない。戦闘、寝床探し、食料探し。これまでもそうやってきたのだから、なんとかなるだろう。まだほそぼそと生き残っている人間たちの全てがここにいる連中とは言わないが、非情とも言える選択をできない人間を養うのは面倒この上ない。本来なら、ここで、あの死にかけを撃つ義務は俺にはない。何もつけずに、何もせずにここから抜け出すのも容易いことである。しかし、それでは、ここに入れてもらった恩に報いることができない。これは義理だ。仁義を通すだけである。少なくとも自分のためではない。自己満足も甚だしい。しかし、一人の命よりも49人の命の方が重い。未来がある。後2日3日の命を置いて、次の犠牲者は出す必要はない。しかし、誰もそれをわかっていない。否、分かってはいても、行動できないのだ。恐怖と倫理と教育が生んだこの平和ボケした連中は人の命を奪えない。己の命よりも他人の死にかけの命を助けたがる。優しさに満ちた世界。ある作家は『綿で優しく窒息させられる世界』と、表現した。綿がなくなっても、絞められている感覚は続いているらしい。だから、それに則って動く。だから、だからこそ、俺は、行動をもってその愚かさを示す。

 太陽がもう少しで上がってくる夜明け前、俺は、予め用意しておいた枕とリボルバーをもって、女の下にいった。女は隔離はされていたが、完全ではない。すぐに入れるし、すぐに出れる。扉一枚しか隔てていない。幸運なことに、介抱している女はいない。部屋の中には死臭が広がっている。肉が腐っているのだ。これは、もう2日保たない。俺は、ゆっくりと女のもとに行き、見下ろす。苦しいのか、目を瞑っていても、うなされている。同情はしたくないが、哀れには思う。

「すまない。もう、これ以上苦しめない」

 俺は、声にならない声で、女に謝る。何に対して謝ったのかはわからないが、それでも、謝らないと気が済まなかった。

「なあ、また殺すのか?」

 親友が投げかける。

「ああ」

 一言で返す。

「そうか。お前は、損な役回りだな」

「そうだな、お前を殺した時からか、それ以前からか。いずれにせよ、お前の命も目の前の命も背負うさ。それが、俺が奪った命に対する姿勢だ」

「ならば、前に行こう。俺は、待ってる」

「気長にな」

「そうだな」

 俺は、女に枕を押し当て、リボルバーを頭の位置に持っていく。女は、それで、気づいたが、抵抗しなかった。どうやら、前々から、殺されることは覚悟していたのらしい。枕の下から、ただでさえ弱い声で、

「ごめんなさい。そして、ありがとう」

 そう言い終えた時、俺は、撃鉄を落として、引き金を引いた。

 枕の上から撃たれた弾丸はほとんど音を出さずに相手の頭を貫通した。たとえ聞こえていたとしても何か物が落ちた程度にしか聞こえないだろう。男はゆっくりとした表情で寝ていた。ここの平和が続きますようにと、俺は、心の中で願った。俺の犠牲で、女の犠牲で、生き残れますように、と。


 俺は、一人、廃墟とかした街を歩く。死体と炎が街を飾る。人はどこにもいない。奴らもいない。どこかに人も奴らもいるだろうが、少なくとも、俺一人である。俺は、小銃を握りしめ、進み続ける。

 ふと、疑問が沸き起こった。

 今、俺が歩いている道は、どこに続いているんだろう?と。でも、時間はたくさんある。この好奇心を満たしてみよう。



 後日談。奴らは俺があそこから出てから半年で制圧された。戒厳令は今もなお、発令されたままだが、政府は力を取り戻し、一部隔離地域では商業活動が再開され、多国籍軍が救助に来た。どうやら、この事件は、二本だけらしい。感染してから、奴らになるまでの過程が露骨であったがために拡散が防げたのだろう。しかし、政府の動きも、多国籍軍も行動が迅速すぎる。

 ことが収まったのち、食堂に戻ってみた。誰もいなかった。もぬけの殻だ。しかし、血はなかった。殺し合いが起こっていない証拠である。

 俺は、それをみて、何か救われた気がした。

 この後、男と会うことも、介抱していた女とも会うことはなかった。

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