アダザムンライ

伏潮朱遺

第1章 湖上の暴論(アヴァロン)

 一二八四年、聖ヨハネとパウロの記念日

 六月の二六日

 色とりどりの衣装で着飾った笛吹き男に

 一三〇人のハーメルン生まれの子供らが誘い出され

 コッペンの近くの処刑の場所でいなくなった



 ハーメルンの新門にあるラテン語の碑文には、

 この笛吹き男の正体はマグス(魔法使い)であったと刻まれている。



 Wikipedia「ハーメルンの笛吹き男」より






      Gラウンド0


「本当によろしいの?お姉様」

「ええ、何度も言っています通り、後継者の椅子はお譲り致しますわ」

 妹はとても嬉しそうな顔をした。

「ですが、お約束してほしいことがありますの」

「わかっていますわ」妹がうなずく。「このことは、お姉様とわたくしだけの秘密。誰にも打ち明けませんわ」

「もちろん、それもだいじなのだけれども」

 妹はわたくしの眼を見た。

 わたくしも妹の眼を見た。

 もうすぐ抉られてしまう、綺麗な眼球を見つめた。

「あなたとわたくしは血を分けた双子の妹。わたくしに何かあればあなたが、あなたに何かあればわたくしが、その空白を補わなければならないの。あなたが失う眼はわたくしが、わたくしが失う胎はあなたが」

 妹が眼を瞑る。

「お姉様が仰っているのは、あの方のことですのね」

「もしあなたが、あの方との子を成したのならそれは」

 妹が眼を開けた。

「ええ、お姉様のものですわね」

「いいえ。わたくしと、あなたと、あの方の子ですのよ」

 だって、あなたはわたくしであり、わたくしはあなたなんですもの。

 スペアだなんてとんでもない。

 わたくしは、妹のふりをしてお母様の元へ行った。

 お母様はわたくしを妹の名で呼んだ。

 わたくしは、はいと返事をした。

 ねえ、■■■■?

 どうしてわたくしが、妹のあなたに椅子を譲ったと思いますかしら。

 あの方と会ってもあの方かどうかわからないだなんて、わたくしには耐えられない。

 わたくしは、あの方の顔を見たい。

 あの方の瞳に映ったわたくしの眼を見たい。

 そのためならこんな胎如き、なくなったってどうということはありませんの。

 ですから必ずあの方と子を成してくださいね?

 子を成せるまで何度も何度もあなたを。

 地獄から連れ戻しますわ。

 お覚悟を。




      0


 僕が教授に出会ったのは、前が見えないほどの豪雨の日だった。いや、前が見えなかったのは単に、眼に雨が入らないように前のめりに傘を差していたからかもしれない。傘も透明ではなかったし。

 ワイパーが用をなさなくなったので予定より遠くに車を置いてきた。おかげで目的地に着くころには、川の中を歩いたみたいに膝から下がずっしり重くなっていた。

 構内は極端に閑散としていた。公共交通機関はこぞって麻痺。つまりは、全学生が泣いて喜ぶ休講と相成っている。

 大学のシンボルともいえる建物の正面玄関に、ビニール傘を差して立っている姿があった。僕に気づいて傘を閉じる始末。遠目でもメガネのレンズが曇っているのがわかった。

 怒鳴るのが面倒だったので、彼の背中を押して無理矢理建物内に入った。強風のせいで自動ドアが手動になっていた。そのくらいは教えてほしかった。危うく僕の事前評価を下げるところだった。

「遅かったですね」教授は髪からぽたぽたと水滴を垂らしながらエレベータのボタンを押す。

「なにも外で待っている必要はなかったのでは?」半分皮肉だ。

 残りは骨と皮。

 教授は、写真で見るよりずっと蒼白くやつれていた。

「あなたが会いたかったのは、僕じゃなくて父さんでしょう? 父さんなら」

「長期療養中につき事実上の引退。現在はその地位も業務もすべて一人息子、失礼、実子が継いでいる。公の発表なら大方耳に入れているのでご心配なく。ああ、すみません」僕は傘立てに傘を放りこんでエレベータに乗った。

 ドアが閉まる。教授の白い指は迷わず最上階の数字を押した。

「僕に会いに来る方は概ね3パターンいます」教授は僕に背を向けて立っている。「父さんの容態を知るために見舞いたいけど面会謝絶なので已むなく息子に挨拶する奇特な研究者の方。行方不明の天才博士の兄の居所の手掛かりとして弟の僕を見張る財団の関係者の方。もう一つは」

 到着音。

 おそらくこのやり取りを何百回と続ける間に、体感として身につけたのだろう。計算にしては、あまりに図られたタイミングだった。

 3つ目はそもそも空白。要は、まともな話を期待するなら来客側から手の内を晒せとそれとなく圧力をかける。

「どうぞ」教授が僕を先に降ろす。

 窓を向いて整列する無個性のソファ。やけに白々しい受付カウンタ。

 病院の待合室を思わせる。

 天井が高いお陰で閉塞感はないが、カウンタの奥にしかドアが見当たらない。

「このフロアが丸ごと父の研究室です。いまは僕が使っていますが」教授は首から提げていたカードキーをドア脇の機器に翳した。「どうぞ。生憎と秘書も事務員もこの雨で出勤していませんので、大したおもてなしもできなくて申し訳ありませんが」

 応接室だろう。革張りのソファセットと、専門書をぎっしり詰めた壁紙代わりの本棚。

 座ろうとしたら教授が首を振った。「濡らすと秘書の手間なのでこちらで脱いで頂けますか?」

「着替えもないのに?」

「僕も脱ぎますよ。この通りずぶ濡れです。約束の時間に遅れたあなたの所為で」

 応接室の奥が研究室。教授は自分のデスクを素通りしてさらに奥のドアを開けた。デスク周囲にうずたかく積まれた分厚い専門書の陰になって鍵類を取り出す動作が見えなかったが、電子的な解除音がしたので生体認証かもしれない。生体認証??

 大学にしては物々しい。

「この豪雨の中、どうして僕だけ出勤できたと思います?」教授が白衣を脱ぎ捨てながら言う。「まずはそこに気づいてほしかったんですが、僕の出方を伺ってますか? 用心深いですね」

 何の変哲もない玄関と廊下。そうか。なんのことはない。

 教授はここに住んでいる。

「家事は僕がやっていますので、僕の手間を最小限にしていただける配慮がおありなら、そこで脱いでいただけると助かるのですが」

 何か言い返してやろうかと顔を上げたことを後悔した。

 教授の白い背中が見えた。

「先ほどの話が途中でしたね」教授は曇ったメガネを勿体つけて外す。「3つめのパターンです。父さんの容態を知るために見舞いたいけど面会謝絶なので已むなく息子に挨拶する奇特な研究者でかつ、行方不明の天才博士の兄の居所の手掛かりとして弟の僕を見張る財団の関係者の方が、暇つぶしに会いに来る」

「着替えが済んだ頃、上がらせてもらいます」

「違うんですか?」

「少なくとも僕は、暇つぶしで教授のご都合を煩わせたりしません。教授の手間を増やすことは心外ですが、こちらからアポを取っておいて玄関先というのも失礼です。バスタオルをお借りできませんか? ズボンはここで脱ぎますから」

「わかりました。お待ちください」教授の白い脚がドアの向こうに消える。

 人選ミスではないだろうか。もしくは教授が人違いをしているか。単にその手の人間しか来ないのだろうか。

 わけがわからない。

「警察の人でしょう? 聞いてますよ」教授がタオルを渡してくれた。「僕は臨床ではないのですが、役に立てることがあるようなのでお引き受けしました。どうぞ?」

 マンションの一室そのものだった。墓場みたいなキッチンとダイニング。心許ない照明がついているリビングに案内される。教授は白いシャツに白衣を羽織っていた。着替える前の格好との見分けがつかない。時間が戻ったみたいだった。

 雨が降る前まで。

「サヴァイヴァとお聞きしましたが」教授がソファに座る。「治療が目的ではないのでしょう?」

 治療が目的なら自分のところには来ない。教授が言いたいことはそういうことだ。

「目的は復讐ですか?」

「すみませんが、どこまでご存じで?」

 アポを取ったのが僕だったらこんな頓珍漢な質問はしない。

「警戒されてますか?」教授は薄っすらと笑みを浮かべる。「僕は初対面のあなたを自宅にまで招いているんですよ? 緊張を解いてください。話もできませんよ」

 似非カウンセリングより厄介だ。何が悲しくて下半身をタオル一枚で覆った状態で身の上話を打ち明けなければならないのか。

「では貴方の緊張をほぐすために、とっておきの秘密を教えましょう」教授が顎を引く。「父はすぐ隣の病院に入院中ですが、面会謝絶はドクタ判断ではなく父の希望です。僕は週に1回、父の面会に行きます。その日だけ、僕は大学には来ません。講義も会議も、その曜日だけは都合がつかないことになっている」

「門外漢の僕が聞いてもこの件の重要度がいまいちわからないのでコメントがしづらいのですが、もしかして、その曜日が今日だったりしませんか?」

「察しのいい方ですね。なので僕は時間通りに来てもらいたかったわけです。このあと予定があるので」

「先に仰って下されば」

「先に言ったら日を改めようとするでしょう? 貴方は僕との面会にさほど重要性を見出していない。上司の方に言われて仕方なく足を運んだにすぎない。僕だって暇じゃない」教授はそこまで一気に喋って一拍置く。「貴方は死にたがっているように見えます。僕が自殺未遂常習犯だということを、どこかでお聞きになりましたか?」

「いえ、初耳ですね。こちらの情報のほうが、内密度合いが高いように思われますが」

「運悪く死に損っただけです。知られて不都合なことは何もない」教授は僕から眼を離さずに言う。「復讐を終えたあとの虚無感に耐えきれなくなったらまた来て下さい」

「お父上の面会に行かれるのは教授自身のご希望ですか?」

 腰を上げかけた教授を再度ソファに戻すことには成功した。

 僕の好感度大暴落を引き換えに。

「3つ目のパターンで訪問客と会われるのも、教授のご意志ですか?」

「僕になんらかの権利があるとすれば、飛び降りくらいのものです。貴方こそ、自由を奪われた挙句こんな無意味な復讐に囚われているのでは?」

 なかなかの切り返しだった。上司があらかじめあることないこと吹き込んだにしては妙に的確なので、教授への警戒レベルを押し上げることにした。

 雨はいまもひっきりなしに窓ガラスを攻撃しているはずだが、ここは静かだった。神経質な遮光カーテンが引かれているので外の様子がわからない。

 教授はメガネを外してサイドテーブルに置いた。「以前は伊達だったんですが、長いこと掛けていたら眼と脳が勘違いしたらしく、結局度を入れる破目になりました。あなたの復讐もその手の類のものではないんですか?」

「勘違いだとしても、世の中には存在してはいけない類の悪があります。僕はそれを目の当たりにしていながら、長いこと何もできなかった。僕に足りなかったのは、悪かどうかを見極めて葬ることを決める覚悟ではなく、悪を一瞬で葬り去る武器です」

「その悪は複数いるのですか?」教授の眼線が僕の股に落ちる。「貴方が葬ろうとしている悪が、氷山の一角にすぎないと考えたことは? 貴方の思う絶対悪とは何ですか?」

「悪の定義をする必要はありません。僕が消し去りたい悪は、今も昔もたった一つしかないんですから」

 なるほど。僕にズボンを脱げと言ったのは、床が濡れることへの嫌悪だけではなかったか。

 僕はタオルの中に銃を潜ませている。両手で狙えるように2丁。教授が複数と言ったのはそういう意味だろう。

「教授は僕が怖くないのですか?」単なる面会に銃を提げてやってくる警察関係者を。

「僕は貴方の憎む悪じゃない。そうでしょう?」

「ええ、そうです。そうですね。僕にはあなたを殺す理由がない。卓見です、教授」可笑しくて堪らない。「上司が何を伝えたのかは知りませんが、僕はあなたに相談したかったわけでも、況してや世間話をしたかったわけでもない。暇つぶしだなんて畏れ多いです。僕が今日ここに来た理由をお教えしましょう」

 教授は予想がついたのか、ついていないのか、ひどく曖昧な表情を浮かべて眼鏡をかけた。

 11時00分。

「教授。あなたは最愛だった相手を殺していませんか? そのときのことを伺いに、今日は参りました」

 腕時計の秒針が一周する。

 視界の端で見ていた。視界の中央には教授がいた。

「実は僕が殺そうとしている悪は」

「困ったな。父さんが待ってるんだけど」教授はわざとらしくケータイの電源を落とした。「一緒に言い訳考えてくれますか? それなら仕方ないと、一発で納得してくれそうなやつを」

「難題ですね。教授のお父上、心理学の権威でしょう?」

 そのとき教授から聞いた話ははっきり言って何の参考にもならなかった。

 役に立ったことといえば、教授のところを訪問する客のパターンを4択に増やせたことくらいのもので。どう転んでも教授側のメリットにしかなっていない。

 ほどなく僕は、悪を取り逃がした落とし前で左遷を余儀なくされたので、直接教授に会ったのはそれが最初で最後になった。電話でのやり取りは時折。僕か教授のどちらかが気が向けば。

 教授は父親の見舞いをやめたらしい。来客のパターンも2つまで減らしたとか。

「やりたくないことはやめたよ。僕は飛び降りる以外のこともやってみようと思う。ああ、そうだ。いま書いてる論文なんだけど」

「教授。申し訳ないけど」

 来た。

 待っていた。この瞬間を。

「わかった。書けたらまた読んでくれるとありがたいな。じゃあ」

 僕は電話を切って振り返る。

 月明かりの下によく映える。

 黒い髪。

 白い肌。

 青い眼。

 赤い唇。

「何遍殺し損ねとるんや、ムダくん」タ=イオワンが言った。「アチに惚れたせいで手元狂ったとか抜かさんといてや」

 銃口を向ける。

 言葉は不要。きちんと的に当てること。

 それだけ考えて撃った。

 はずだった。

 いつもの悪夢だ。


 タ=イオワンは、すでに死んでいる。















 アダザムンライ

 Under the Moon Light






















 第1章 湖上の暴論(アヴァロン)



      1


 本部長が撃たれようが捜査本部は結集されなければならない。

「行くよ。てか行かないわけにいかないっしょ」胡子栗エビスリ課長は気丈にしてるけど、明らかに足元がふらついている。

 指摘しようがこの人は這ってでも僕に引きずられてでも参加したいと言い張るだろう。

「大丈夫ですか?」一応、部下として上司の精神を気遣う。義務がある。

「大丈夫じゃなかったら行っちゃいけない? 行かせて」課長は女みたいな声で言った。

 そうか。

 この人は元々女だったのか。

 忘れもしない昨年の夏。塑堂夜日古そどうヨルヒコは、不良少年の仮想的な集い≪フライングエイジヤ≫を復活させ、世の中すべての大人たちに復讐を誓った。両親とのいざこざの仲介を女装課長が務め、因果関係は不明だが、結末として、塑堂夜日古は両親を殺害した。

 美脚の精神外科医・瀬勿関セナセキ先生が主導する凶悪性犯罪者更生収容施設E-KISエキスは未成年は対象外ということで、身柄がどこ預かりだったのか僕には知らされなかったが、またその名を耳にするということは、一般社会に放たれているということだろう。

 塑堂夜日古が、イブンシェルタを吸収したらしい。

 吸収だけならよかったのかそうでないのかはここで置いておくとして、塑堂夜日古は現在、港近くの遊園地の観覧車に爆発物を仕掛けたと、ご丁寧にも課長宛てに連絡を寄越した。爆発物だけなら僕ら対策課の出番ではないのだが、観覧車はもともと人を乗せるためにある。

 爆発物と人の両方が乗っている。

 人質がいる。その人質が、課長としては血管ぷっつん案件なわけで。

 塑堂夜日古は、あろうことか、吸収合併したイブンシェルタの幹部を、爆弾と一緒に観覧車に乗せたということらしい。

 県警本部の一番大きい部屋。さぞ人員が割かれているのかと思いきや、吃驚するくらい閑散としていた。

 すぐにわかる。会議が終わった後だ。熱気と汗と苦労が重たい空気として残留する。

 本部長が撃たれていなければ、いつもの仏頂面で課長を待っていたであろうその椅子に、見知らぬ顔がいた。

「特に召集をかけた覚えはありませんが」

 見るからに頭の出来か親の血だけでのし上がってきた外観をしていた。

 これといった特徴もない中肉中背。眼の奥にあるのは野心でも況してや情熱でもない。レールに乗って辿り着いた先にあった財宝をどう処理するのが自分にとって最も都合がいいのか。それを最優先でかつ事務的にこなすことに長けたタイプの人種だ。

「主犯は、塑堂夜日古です」課長は脇目もふらずその若者の真ん前に仁王立ちする。「私を捜査に加えずにどうやって奴を追い詰めるおつもりでしょうか」

 一応敬語は使っている。

 僕にだってわかった。そいつが、新しい本部長だ。

荒種あれくさ前本部長の遺志を継いで、ですか」

 もし僕が課長の立場だったら胸倉掴んで頭に風穴の一つや二つ空けていたかもしれない。課長はそんなことはしない。折り畳み式の長机が、新本部長とは反対側に倒れたくらいの、極めて平和な現象で済んだ。

 新本部長は臆さない。瞬きすら通常通りだった。

「本部長は私です」

「ええ、わかりますよ」課長が至近距離で言う。「ですから、私を捜査に加えるのが」

「対策略的性犯罪非可逆青少年課、課長・胡子栗茫えびすりトール改め、本名小頭梨英オズなしひでならびに」凡庸な視線が僕を射る。「徒村等良アダムラなどよし両名に告ぐ。現時刻をもって対策略的性犯罪非可逆青少年課は解散。別命あるまで待機とする」

 課長が何か言おうとした口を噤んだ。叫びそうになったのを寸前で押し留めたといったほうがいいか。課長にはとっくに予想できていたのだろう。

 本部長が本部長でなくなるということは、そういうことだ。

「復唱は必要ありません。直ちに従ってください」新本部長が平板に言う。

「別命は頂けるんですよね?」我ながら無意味な問いだった。「解散ということは、僕らはどこ預かりになるんでしょうか?」

「希望を聞きましょうか?」新本部長が言う。

「困りますよ。だいじな研修先を初日に解散されたら」知らない青年が部屋に入ってきた。ノートPCを小脇に抱えている。「はじめまして。対策略的性犯罪非可逆青少年課の課長殿とその優秀な部下の方。僕は埼玉県警の方から参りました、龍華彌能末タチハナやたすえといいます。民間との協力体制の最前線、略して対策課で2週間学ばせて頂く予定だったのですが」

 青年はそこまで一気に喋った。あらかじめ考えられていた文面にしてはまとまりすぎていたので、おそらく何度も何度も言わされるうちに余計な部分がそぎ落とされて最適化したのだろう。

 頭がよさそうだが、頭がいいだけ。着ているそこそこ上等なスーツに合うように、外見と中身を調整してある。好青年を装って、懐に毒を忍ばせる。来たるべきときのために、その一瞬は見逃さない。

 僕は、新本部長なんかより、この出所のわからない青年の方に警戒レベルを割かれた。

「せめて研修の間だけでも存続を延長していただくわけにいかないでしょうか」龍華は新本部長と課長の間にねじり込む。「ね? 課長さんも2週間あればなんとかなるでしょう?」

「私が憂いているのは、対策課の存続ではなく」課長が新本部長に言う。「塑堂夜日古の然るべき処遇です。何かご存知ですか?」

「ここを預かる前のことは、前任者に聞いてください」新本部長が言う。やっと龍華を認識したようだった。「残念ですが対策略的性犯罪非可逆青少年課はすでにありません。しかし、研修ができないのも私としては不本意です。なので、今はなき対策略的性犯罪非可逆青少年課で活躍していた元課長の元で研修に当たってもらいます」

「略して対策課がないのにですか? ご冗談を本部長」龍華が磨き抜かれた苦笑いを浮かべる。「僕は対策略的性犯罪非可逆青少年課の活躍を間近で見させていただくために、遠路遙々参りました。それが叶わないとなると」

 就任早々新本部長の首が飛ぶのか。別管轄の龍華にそこまでに権限があるとは思えなかったが、埼玉県警にいい印象は与えないだろう。それを些細と切り捨てるのか、まずいと修正できるのか。

「そんなことはどうでもいいのです」課長の言うとおりだ。

 観覧車には爆弾が仕掛けられていて、そこには人質もいる。一刻を争う。

「つい先ほど捜査会議が終わりました」新本部長が言う。「一刻を争う事態にはなっていません」

「埒が明かない。ムダくん、行くよ」課長が部屋を出ようとする。

「どこへ行くのか、私は聞く権利があります」新本部長が呼び止めた。

「私はもうあなたの管轄にはいない。いいや、最初からあなたの管轄にいません。失礼します」課長はそれを捨て台詞に行ってしまった。

「やれやれ、初日から波乱しかない」龍華が小刻みに首を振って追いかける。「待ってください。僕も行きますよ」

 さて僕は、どうするべきか。

 略して対策課はすでにない。追いかける意味もなければ、課長に付き従う意味もない。

 確かに課長にはこの一年弱お世話になったが、それだけだ。たまたま僕が配属されたこの部署の上司が、たまたま課長だっただけのこと。

 薄情かもしれないが、僕には他にやることがあった。あった、のだ。

「徒村さん」新本部長が僕を見ずに言う。「あなたの名前が県警のデータベースにありませんでした。失礼ですがご本名ですか?」

「以前はここにいなかったんです」

「私は警察庁から来ました。この意味がわかりますか?」新本部長が言う。今度は僕を見ながら。「あなたの名前を、別のデータベースで見つけました。どこだと思います?」

「同姓同名の別人ではなく?」

「あなたのお名前はアダムラ・などよしとお読みするんですよね? 私が見つけた名前は別の読み方をしたのですが」

 新本部長が腰巾着に呼ばれる。何か動きがあったのだろうか。

「データベースで見つけた徒村等良さんは、二十年以上前に亡くなっています」新本部長がすれ違いざまに呟く。腰巾着には聞こえない程度の声音で。「とすると、あなたは一体誰なんでしょうか」

「それこそ同姓同名の誰かでしょう。僕はここに生きているんですから」

 新本部長はそれ以上何も言わなかった。

 名前を聞きそびれた。しまった。墓に刻む名前がわからない。

 8時14分。

 本部の外に出て、対策課の事務所があるビルに向かう。屈強な門番の屈強な朝の挨拶を横目にエレベータに乗る。2階の入り口に見覚えのある後ろ姿がいた。

「おはよう。鍵でもなくした?」ドアを確認したら鍵は開いていた。

 スーザちゃん。

 だと思うのだが。

「3階がお留守のようでしたので、こちらに伺ったのですが」

 スーザちゃん。

 ではなさそうだ。

 レースをあしらった黒いワンピース。羽織っているそれも靴も、全身真っ黒。背丈と後ろ姿はそのものだったが、顔を合わせたら違いがわかる。

 スーザちゃんはサングラスをかけていない。

 スーザちゃんの髪はそんなに闇色ではない。

「あなたがムダさんですの? はじめまして。わたくしは」

「ちょっと待って」なんだろうこの違和感。

 スーザちゃんにそっくりだけど、スーザちゃんには全然似ていない。

 居心地の悪い空気が漂う。事務所に入ろうとしていた手を引っ込める。

 ドアから離れる。

「入れては頂けませんの?」スーザちゃんと思しき少女が言う。

「僕は、君とはじめましてじゃない気がするんだけど」

 少女はたぶん微笑んだ。顔が小さいので、眼の周りどころか顔の半分くらいが真っ黒のレンズで覆われている。

「お姉様に似ていませんでしょう?」

 激痛の眩暈。

 実際の痛みではない。そんなことはわかっている。わかっているのだ。

 まずい。

 対策課がなくなったいま、僕はこんなところで慣れない正義の味方ごっこをしている理由が本当の本当に消滅した。

「わたくしと共に帰りましょう? お母さまがお待ちですわ」

 反射的に少女と距離を取る。といってもエレベータに近づくくらいしか、この場所の広さは心許ない。

 逃げる。戦う。

 どちらが適当か、脳の大半を使って可能な限り多くのパターンを計算する。

「そんな物騒なものおやめ下さいな」少女が両手を広げて見せる。自分は丸腰なのだと訴える。のと同時に。「わたくしはあなたの味方ですのよ」

「僕が抵抗しない、ていう条件付きのね」

 上着の内側に隠してあるこれなら、次の一瞬もあれば少女の頭を吹っ飛ばすことができる。だけど、やってしまってはいけない気もする。

 利き手の反対側の手が痙攣する。

「えっと、スーザちゃんの双子の妹さん?」

「自己紹介がまだでしたわね。わたくしは、祭地玄宮さいちクロミヤと申します。どうか、ゲングウとお呼びくださいましな」

「ゲングウさん」

「はい? なんなりと」

 いる。

 エレベータの裏の階段の陰に。なんで気づかなかったんだ。僕の言動と態度如何ではそこから何かが飛び出してくる。相手が肉弾戦を得意とするなら身体ごと、射撃を得意とするなら銃弾が。

 いずれにせよ、挟み打ちはちょっとばかし不利だ。

「僕が聞きたいのは三つです」麗しの精神外科医・瀬勿関先生お得意の三本論方式を採らせてもらおう。「一つ目は、本部長を撃った犯人に心当たりがあるかどうか。二つ目は、あなた方の目的が僕の目的を妨げないのかどうか。三つ目は」

「わたくしも急いでいますの。順番に答えますわ」ゲングウさんは事務所の入り口に背中をつける。「一つ目、イエス。二つ目、イエス。さあ、三つ目をどうぞ?」

 イエスノーで答えられる質問形式にしたのには理由がある。

 僕も急いでいる。イエスノーさえ聞ければあとは推測できる。

「三つ目です」僕は前方と後方とのそれぞれの距離を目算しつつ。「スーザちゃんは生きているのかどうか」

 少女の口がにやりと裂ける。

 答えは聞かずともわかった。

 ので、事務所のドアでもなくてエレベータでもなくて階段でもない出口から逃げた。2階程度なら大したことはない。屈強な門番が有事と勘違いして駆け寄って来る前にその場を駆け抜ける。

 現段階で考えられ得る最悪の状況は、本部長が殺されたのは僕のせいで、スーザちゃんが殺されたのも僕のせいで、課長も近々僕のせいで殺されるってこと。

 8時40分。

 朝の散歩と通勤ラッシュは回避できた。公園を抜けて地下街に下りる。地下街は地元の人間じゃなければ方向感覚と現在位置を容易く見失う。隠れるにはもってこい。撒くにもお誂え向き。

 県内の芸術行為の一切を担う中核。劇場もギャラリィも美術館もコンサートホールも兼ね備えた複合施設。美術館は10時開館だが、建物自体は出入り自由となっている。

 地下からアクセスすると閉塞感があるが、1階から入れば最上階までの吹き抜け構造に解放される。

 こんな早朝には関係者しかいないはずだが、

 人の気配がして上を見る。

 見なければよかった。

 いた。

 いるはずのない、

 いてはいけない、いないと思っていた、思わされていた幻影。

「おはようさん」口がそう動いた。

 僕は上着の内側から出したそれをその幻影に向ける。

 距離が、

 遠すぎる。

 エレベータはこちら側のみ透明構造。

 その中に、

 いる。

祝多イワタイワン!!」僕も口の動きだけで叫ぶ。

 エレベータは最上階で停止し、彼女は箱から脱する。後ろ姿が消えた。

 エレベータで追うのは得策でない。逃げられる恐れがある。

 エスカレータは動いていない。脇に備え付けられた階段を駆け上がる。

 最上階は、

 12階。

 エレベータを使って入れ違いになることは防げる。透明構造のお陰で監視しながら上階に行ける。

 階段は美術館入り口のある10階まで。その先に行くには違う階段もしくはエレベータを使う必要がある。

 開館前でよかった。学芸員も客もまだ誰もいない。

 11階。

 上着の内側に手を入れながら展望回廊を抜ける。

 12階。

 ソファが点在するロビィ。奥がガラス張り。

 庭園が拡がっている。桜はすでに散った。そのあと何が咲くかは僕にとってはどうでもいい。

 慎重に進む。曲がり角で狙いを定める。

 屋根付きのベンチに腰かけていた。

「ようここがわかったな」眼はこちらを見ていない。腹部のそれに固定されている。「おお、おそがい。まだ死んどらんで」

 主語は、スーザちゃんだろう。

 もしくは、

 自分自身。

「アチのゆうこと信じんの?」

 言葉が上手く出ない。利き手の引き鉄ならいますぐにでも引けるのだが。

 なにを、

 躊躇う?

 そこに祝多イワンがいる。タ=イオワンがいる。

 それ以外に引き鉄を引かない理由があるか?

「撃たんの?」

 その通りだ。指摘されているのがわかっていて動けない。

 嫌だ。

 なぜ。

 想像力で行動を制限される。

「アチを殺すんやないんか? 機敏に動けんいまがチャンスやな」

「スーザちゃんは」口が勝手に聞いていた。「もう手遅れ?」

「聞きたいんは別のことやろ」アチの「お腹がなんでこないになってるんか」

 落ち着いたほうがいい。

 落ち着いていられない。

 対極の思考と感情の間で振り切れる。

 どうして。なぜ。理由がわからない。

 違う。

 ちがう。

 なにが、

 違うというのか。

「せやから死んでへんよ」タ=イオワンが言う。「スーザにあってアチになかったもんを、スーザから引っ張り出してアチに埋め込んだん」

 魂か?命か?

 ちがう。

 タ=イオワンは死んでいない。死ぬわけがない。

 とするなら、

 腹部が膨らんでいるのは。

「子宮や」

 タ=イオワンがいなかったら嘔吐していた。

 逆を言えば、タ=イオワンがいるので堰き止められない。

「いかん。食あたりかいな」

 おかげで、朝に食べた物をぜんぶ思い出した。

 我ながら、まともなものを摂取していない。

「かーいそになぁ。背中さすったろか?」

 そんなことをされたら胃の中のものだけじゃなくて、胃ごと外に出してしまいそうだ。

 呼吸を整えて、手の甲で口を拭う。

 大丈夫だ。何が大丈夫かわからないが。暗示。

「いまのところ最悪の推測しかできていない。反証が欲しいんだけど」

「たぶん合ってんで。相変わらず、頭だけはええな。訓練のたまもんやねぇ」タ=イオワンが自分の腹部を撫でる。「もうすぐやで。あんたに似とったらええな。ムダくん」

 背中に走るのは寒気か電撃か。

 手に持った凶器を落とした。すぐに拾う。

 震えが止まらない。

 照準が合わせられないじゃないか。

「ムダくん。一年ぶりにアチに会えた嬉しさで記憶が混乱しとるんやな。しっかりしい?」

「どこかの課長やらイブンシェルタやらのお陰で、性別が変わったりするのは驚かないと思っていたけど。そういうこと?」

「せやからゆうとるやん。スーザから子宮引きずり出したゆうて」

 タ=イオワンは、僕の記憶だと生物学的には男だったはず。

 なんだけど。

 そんなイカレた手術みたいなことができるのか。

 性転換課長という例もいるが。

 意味がわからない。

「そのお腹のも含めて、僕を狂わそうと思ってやってんなら」

「なんでそんな嫌がらせみたいにとるん?」タ=イオワンが言う。「喜んでよ。おめでたやん」

 僕は首を振る。

 首を振るだけですべてを否定できるのなら、タ=イオワンの膨らんだ腹部は消えてなくなっていた。

 なくならないということは、認めざるを得ないのか。

 認めたくない。

 認めるわけにはいかない。

「ムダくん、まだそのトンデモ性癖直ってへんの?」

「余計なお世話だ」銃を構える。「動いたら撃つ」

「ムダくん。ええこと教えたるわ」タ=イオワンが言う。「アチには後継者候補が四人おるんよ。アチの後釜んなる条件が、ムダくんを骨抜きに惚れさして、アチの前で童貞奪うことになっとるん」

「ひどいこと思いついたよね」

「アチを捨てて逃げよった罰やで」タ=イオワンが言う。「安心しぃや。四人とも女やあらへん」

 問題はそこじゃない。

 なんで勝手に、借り物競走のリスト兼豪華賞品に挙がってるのか。そこだ。

「それぞれ妨害もあり? 対立候補が共倒れもしくは全滅するっていう可能性なんだけど」

「ムダくんが防衛するんもありやで。ムダくんに殺されるくらいのタマなら跡継ぎに相応しないわ」

 もし僕が、タ=イオワンの立場だったら。

「僕を連れてってヤったところで、ほなさいなら、って殺すんでしょ?」

 タ=イオワンが笑う。

 とびきりの不気味さがあった。

「ムダくんにも選ぶ権利はあるで。誰に童貞もらってほしいんか」

「その4人、いや、3人のプロフィールって教えてもらえるの?」銃口を向けながら言う。

「せやな。大きさだいじやな」

 春の戦争ってのはこれか。

 4人のうち一人はスーザちゃんだが、すでに脱落している可能性が高い。

 タ=イワンがここにいる。

 彼、いや、彼女が帰って来たということは。

 南の方向に黒煙が上がったのが見えた気がした。

「スーザに勃たんかったのはホンマ?」タ=イオワンが言う。

 開戦の狼煙にしては、とびきり趣味が悪かった。



     2


 やりやがった。

 観覧車のゴンドラの一つが爆破された。俺の眼の前でよくもそんな。

 予想通り電話が鳴った。

「どこで見てやがる?」周囲を見回す。「迎えに行ってやるから」

「すっかり男の人じゃないですか」塑堂夜日古そどうヨルヒコが笑う。「先に言っておくと、いま爆破したゴンドラは無人です。それと僕の手元に起爆スイッチはありません。逆を言えば止めることもできません」

 埼玉県警の奴がノートPCのモニタに出力する。

『逆探知しますので、これを繋いでください』とのこと。

 コードを引っ手繰って端末につなげる。そういうのがあるなら早く出せ。

「狙いは何? 人質と俺を交換して」

「無理ですね」塑堂夜日古が淡白に言う。

 制服と私服が一定距離を保って待機中。野次馬はもっと陸地に近い場所でシャットアウトだ。ここら一体の封鎖は新本部長の手腕だろう。

 爆弾なんかないのかもしれないという甘い見通しが一瞬にして吹き飛んだ。

「どういう意味の無理なの?」埼玉県警に目線で尋ねる。

 まだか。

 彼は首を振る。

「だって僕も」

 埼玉県警が眉をひそめて指をさす。

 観覧車。

 まさか。

「乗ってるんですから」

 冗談じゃない。

「死ぬ気?」

「いいえ」

「じゃあ」用が済んだコードを引っこ抜いて埼玉県警に返す。

「笛の音が聞こえませんか?」

 寒気と耳鳴りがした。

「笛の音が聞こえたら合図です」

 なにを、

 いっている?

「僕なんか囮ですよ。気づいてください」塑堂夜日古が言う。「20年前、まったく同じこをとした人がいたでしょう? 僕はそれをなぞっているだけです」

 意味が、取れない。

「ねえ、フライングエイジヤ創始者 小頭梨英オズりえいさん」

「いますぐ港へ向かってください」群がっている私服と制服に叫ぶ。「出港しようとしている船があるはずです。それを止めて下さい」

「間に合いませんよ」塑堂夜日古が言う。「あなたはまた同じことを繰り返す。あのときたった一人だけ救えなかったメンバーがいたでしょう? 思い出せますか? いえ、思い出せるわけがない。あなたは、彼と会ったこともないんですから」

「早くして下さい。手遅れになる」

 制服も私服も観覧車に夢中で聞きやしない。こんなとき、本部長がいれば。

 俺の声なんか届かない。

 俺が、行くしかない。

「ここ任せる」埼玉県警に言い残して走る。

 付いてきたらそのときはそのとき。塑堂夜日古が死ぬだけだ。

「いいですよ。やっぱり僕なんかよりその他大勢を選ぶ」塑堂夜日古が言う。「参考程度に聞いてください。観覧車に乗っているのは、僕の他に、イブンシェルタ元代表を含め、同質の七人が揃っています」

「君だってその幹部じゃないか」

 砂宇土夜妃サウドようひ

「ですから、僕も乗っているんです。僕、いいえ。私も、幹部ですから」

 狙いが読めない。

 俺に最大限迷惑をかける方向で最上の方法ではあるが。

「さっき死ぬつもりはないって言ったね?」走りながら聞く。「それはどういうこと? 絶対に俺が助けてくれるって思ってる?」

「はい」塑堂夜日古が言う。何の迷いもない間だった。「助けてください。僕と、私を」

 どうすりゃいい。

 なんでムダくんは追ってこない。

 なんでご主人と連絡がつかない。

 なんで、あんたは白いベッドで息も絶え絶えになってるんだ。

 俺一人じゃ、なんもできない。

「いやっほー、りえーちゃあん。お元気してたー?」空から声が降ってきた。

 白い塊が眼の前で着地する。

 そいつはべろん、と赤い舌を出して笑った。

「俺ンことお忘れ? お互い生きててよかったなぁ、つって」

 白い少女だった。

 でも声は低い。

「男?」

「ンだよ、そのうっすい反応はよぉ」白い少女が俺の顔を至近距離で威嚇する。「マジで俺のこと忘れちったのぉ? フライングエイジヤのカリスマ、オズリエーちゃん、つったら俺らの憧れの的よ?」

 肩出しの白いワンピース。スカートは膝丈。

 白い。

 髪も肌も歯も。

 胸はそこそこに大きかった。

「マジに憶えてねーの? かなしーねぇ」白い少女が肩を竦めて一歩引く。

 黒い、

 闇色の塊が視界を占拠した。

「はじめまして」黒い少女が言う。「あなたに伝えたいことが三つほどありますわ」

 白い少女は膝を折って黒い少女の脇に控える。

 上下関係なのか。この二人は。

 さほど外見年齢に差異はなさそうだが。

「一、大王、いいえ、荒種アレクサさんは、ここにいるビャクローが撃ちました」

 へえ。

「二、ムダくん、いいえ、徒村アダムラさんは、わたくしと添い遂げます」

 ほお。

「三、チューザ、いいえ、朱裂アカザキは死にました」

 感じていた違和感の正体がわかる。

 黒い少女は、ご主人と瓜二つだった。声も背丈も骨格も何もかも。

 顔は、大きなサングラスで確認ができない。

 ここから導き出される最悪の結論は。

「あかざきさん、てのは、もしかしてスーザちゃんのこと?」

「ええ」黒い少女が言う。「朱裂お姉様はママに子宮を引きずり出されて死にましたわ」

 笑えやしない。

 そんな最悪な死因があって堪るものか。

 お姉様。てことは、

 双子の妹か。

「ここ最近、ご主人と連絡が取れなかったんだけど、そういうこと?」

「対策課とやらもお終いなのでしょう?」黒い少女が言う。「朱裂お姉様がママから奪った祝多出張サービスもわたくしが引き継ぎます」

 本部長を撃った犯人がそこにいて。

 可愛い部下も奪われそうで。

 ご主人に至ってはすでに命がないという。

「そっくり信じるにはちょっと俺に余裕がないっていうか」

「あなたの処遇はわたくしが如何ほどにでも出来ますわ」黒い少女が言う。

 まずい。

 たぶん、黒い少女自体に戦闘能力はない。

 だからこそ、白い少女が傍らにいるのだ。

 俺の動きを全身のセンサが追跡している嫌な感覚がまとわりつく。

「命が惜しいかしら?」黒い少女が無感情に言う。

 惜しくなるような命だろうか。

 フライングエイジヤの残党だけは何とかしてやりたかったが。

「相っ変わらず、りえーちゃんの絶望顔たまんねぇな」白い少女が卑下た笑いをする。

 手も足ももがれてどこに走ろうとしているんだろう。

 頬に冷たい感触。

 黒い少女の手だった。肘から指先までを覆うグローブ越しに触れる。

「お可哀そうに」黒い少女が言う。「わけあって、あなたの境遇については心得ています。おつらかったでしょうね。すべてを取り返せとは言いませんが、少しお休みされてもよいのではないでしょうか。気持ちと心の整理には、休息が一番ですわ」

「仲間になれってんじゃないんだね?」

「それはそれで面白そうですけれど」黒い少女の瞳は見えない。「わたくしは、力づくという方法を好みません。ご自身の意志で、来ていただけるのであれば歓迎いたしますわ」

「ご主人を殺したのは力づくじゃなかったとでも?」

「わたくしではありませんわ。ママが」

「ママってのは、祝多?」

 黒い少女が手を下ろす。

「祝多が近くにいるの?」

「そうでしたわね。あなたは、ママに殺された」黒い少女が言う。「わたくしと一緒。わたくしも、もう幾度となくママに殺されている。そう、あなたに共感を覚える理由が今わかりましたわ。ビャクロー、聞こえる?」

「はい、ここに」白い少女がすっと立ち上がる。声がワントーン下がった。

「あなたの言った通りになったわ」黒い少女が顔の前で指先を合わせる。「梨英リエイさんには危害を加えたくないの。お願い」

「承知しました」白い少女が頷く。

「一つ訂正していい? 梨英さんとやらは祝多に殺されたんだけど」

「失礼しました」黒い少女が言う。「胡子栗さん。トールさんのほうがよろしい?」

「どっちでもいいよ。そんなことより」

 爆発音。

 後悔というより案の定。

 痺れを切らしたか。

 爆発のタイミングは手動だったと見て間違いない。

 俺が見捨てたから。

 さすがに二度の爆発には耐えられないだろう。

 必要なのは俺じゃなくて消防と救急か。

「また会いましょう? トール」

 汽笛が聞こえる。

 笛じゃなければ何でもよかった。

 あの笛は、

 聞こえなくなって久しい。

 やっと。

 やっと聞こえなくなったってのに。

 うるさい。

 うるさいだまれ。

 気が狂いそうだ。

 その音が、

 あの笛の音だと認めたくない。

 現場に戻ると、埼玉県警が訝しい顔をして立っていた。

 観覧車は壊滅状態で、消火と救助が並行して行なわれていた。

「僕は、研修に来る時期を間違えましたね」埼玉県警が呟く。

 塑堂夜日古の生存確認だけでもしたかったが、都合よく電話が鳴った。

「地獄からかけてます」

 やっぱりブラフか。

 観覧車になんか乗るわけがない。乗りそうな顔をしてない。

「どこにいる? 一生出られない檻に入れてやる」

「あなたには僕がしようとしていることがわかると思うんですが」

「わかんないね」

 わかる気もない。

「参考程度に教えますけど」塑堂夜日古の声が言う。「あなたが20年前に見殺しにした彼、生きてますよ」

「いまどこだって聞いてるんだけど」

「僕も調べて吃驚したんですけど、まさか、ついこの間まであなたの部下だったとか、すごい偶然ですよね。もしかして、あなたに復讐するために地獄から蘇ったんだとしたら」

 ちょっと、

 待て。

 いま、なんて。

 埼玉県警は逆探知を申し出ない。

 コードを寄越せという意味で手を出したが、眉を寄せるだけ。

 使えない。

 どいつもこいつも。

「部下って」

「あなたの部下ですよ。僕もお会いしました」

 一人しかいない。

 嘘だろう。

 わけがわからない。

 なんで。

「ムダさん、て呼ばれてたと思うんですが」

 電話が切れた。

 サイレンが遠ざかる。

「あの、すみませんが」埼玉県警が言う。「僕が言うのも差し出がましいんですけど、しばらくお休みされたほうが」

 黒い少女の声が頭の中で反響する。

 ベッドに埋まってる黒い頭がちらつく。

「不快にされたら謝ります」埼玉県警が言う。「でも、だいぶお疲れのようですので。心労が祟ってると思われます」

 埼玉県警は嫌味で言っているわけではなさそうだった。

 反論する気力もなかった。

 埼玉県警が俺の手から電話を奪い取る。

 通話記録。

 最後に使ってから、ゆうに20分は経過している。

 わかってる。

 わかっていた。

 塑堂夜日古は、本当に地獄からかけてきた。

 



     Aラウンド1


 船の中には、黒い女と白い女がいた。

 本当にいいのか。白い女が言った。

 戻る理由はない。そう答えた。

 それならいい。白い女はそれきり黙った。

 黒い女はひとことも喋らなかった。

 すぐわかった。

 黒い女は死んでいた。

 船はしばらく海に揺られていた。

 酔いはしなかったが、眠気が襲ってきた。

 少し眠ったと思う。

 着いたぞ。と白い女に起こされた。

 連れて行かれた先は、妙なにおいのする神殿のようなとかく天井の高い空間。

 白い女は黒い女を抱き抱えてどこぞへ消えた。

 死体は燃やすか埋めるかどっちか。

「食べるんや」

 長く真っ直ぐの黒髪。

 縁無しレンズ越しの青の瞳。

 腰までスリットの入った奇抜なドレス。

 白く長い脚が印象に残った。

「ソチはいまからアチのもんやで」

 自己紹介は要らなかった。

 ムダくん。

 タ=イオワンは、僕をそう呼んだ。

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