第15話 脱出
その場にいた誰もがレインスの変貌に気を取られた。彼を背後にして戦っていた白霊虎の少女シャロですら急な気配の変質に動揺した程だ。だが、その姿の変貌を目の当たりにした男たち程ではない。
「さて、勇敢で可憐なお嬢さん。退いてくれるかな?」
先程の少年のものよりも低い声。しかし、聞いていて悪い気にはならない声だ。ただ反応するには余裕がない……そう考えたシャロは不意に浮遊感を覚える。
「あんまり時間をかけられない。ごめんね」
「な……!」
シャロが気付いた時、彼女は既にこの部屋で一番大きな存在感を放つ血に濡れたベッドの上に投げ出されていた。それは同時にシーツの下に隠れていた女性の上に投げられたことを意味する。
「奥様! すみませ……ん」
シャロが柔らかいものを下敷きにしていると気付き、それが人間のものであると認識したその時には目の前の勝負は決着がついていた。上下に分断されるグスコルとその向こう側で剣に付いた血を払う青年。
「え……」
「次だ」
シャロは驚く。だが、驚くのはそれだけではない。目にも止まらぬ速さで動いた彼を彼女の凄まじく優れた耳は捉え続けていた。彼はグスコルが崩れたとほぼ同時にそのまま奴隷館の主の下まで一瞬で移動したようなのだ。
「待「【
結果を認識した館の主が命乞いする事すら許されない。袈裟斬りに切り捨てられた男はそのまま絶命する。それが倒れるところまで見届けたところで青年は急に息を荒く吐き始める。同時に、彼の身体は縮小を開始した。
「ぐ、ぅ……あァあぁぁああぁッ」
「だ、大丈夫?」
どうやら彼には返事をする余裕もないようだ。だが、その苦しみにも終わりはあるらしい。青年の苦悶が終わる頃にはその姿は完全に子どもの姿に戻り、そこには先程までそこに居た少年、レインスがいた。
「はッ、は、はぁ……はぁ……に、逃げよう」
「は、はい! 奥様!」
目の前で起きた奇怪な現象から我に返ったシャロ。それと同時に彼女は下敷きにしてしまったと思われる女性のことを思い出して飛び跳ねると声をかける……そう、しようとした彼女の腹部に突然、灼熱感が走った。
「え……」
「う、ふふふふふふふ! やったわ! 私たちをこんなところに連れて来た化物を退治したのよ! クリム!」
(マズい! あいつ、敵だったか!)
何が起きたのか分からずに硬直している白霊虎の娘。彼女の代わりに即座に反応したのがレインスだ。彼は急激な体の変化によって動くのもままならないが白霊虎の娘にこれ以上のダメージが入るのは防ぎたいと無理矢理体に仙氣を通して動く。それに女は素早く反応した。
「来るなぁァァあぁァッ! あんたも化物なんでしょうが!」
「なッ……」
先程の無理の所為で現状無理をしても女性の反応速度を超えられなかったという事実に驚くレインス。同時に彼女が持っている武器についても理解し、過去の自分を呪った。
(あの小刀、恐らくはあの時殺したおっさんの……!)
どうやらこの場に侵入してきた時に首を刎ねて暗殺した男が持っていた隠し武器を少女に刺したらしい。それを油断なくこちらに向けつつ彼女はベッドから全裸のまま身を起こしてシーツで裸体を画しつつ憎悪を込めた目でこちらを見据える。
「忌々しい獣人の娘にわけのわからない人間モドキ……今なら簡単にあんたたちなんて殺せるわ。殺されたくなかったら私の娘の居場所を言いなさい!」
「奥、様……?」
「早く!」
首元に血に濡れたナイフを突き立てられて呆然とする少女に対し、ヒステリックに叫ぶ女性。こんな事にあまり時間は掛けられないとレインスはさっさと口を割ることにした。
「……この屋敷に居た奴隷たちは全員同じ方向に逃がしてある。この部屋を出て右にずっと進めば壁の一部に斬り込みが入っている。その方向に助け合って逃げるように言っておいたからいるとすればそこだろう」
「ふん! そう言って私を騙す気ね!」
(いや、どうしろと……)
完全に錯乱しているらしい女性に何とも言えなくなるレインス。だが、相手は勝手に理解して動き出した。
「もういいわ。私で勝手に探すから……シャロ。私たちを奴隷商に売った忌々しい馬鹿猫め! あんたは二度と私たちの前に姿を現すな! もう関わりたくもないのよ! この化物!」
「奥様……」
口汚く罵られながらベッドから押し飛ばされるシャロ。彼女は依然として呆けたままだが、ベッドの上の女性は止まらない。怒りに更なる熱を供給し、仁王立ちでシャロを叱責した。
「返事は! こんな簡単なことさえ聞けないなんてやっぱりあんたが売ったのね!?」
「違います!」
「だったら返事をしなさい!」
「違うんです。でも……」
シャロの中で色んなものが崩れ落ちていく。だが、レインスもまた物理的に崩れ落ちていくものを感知していた。
「シャロ、さんでいいのかな? ここはもう焼け落ちる。言い争いをしてたら誰も助からないから「やはり名前を知っているということはお前もグルか!」あぁもう、この人面倒だな……」
レインスの言葉で再び強い錯乱状態になった女性は裸のままレインスに向けて武器を投げつける。適当に投げられたそれだが意外に鋭いモーションで、弱っているレインスはそれすら避けられずにダメージを受けてしまった。
「ぐッ……「止めて!」……く……」
「庇うということは「分かりました! 分かりましたから……お止めください……お願いします……」ふん」
自分にまで攻撃してくるとは思っておらず、単純な攻撃を受けてしまったレインスは反射的に反撃に出そうになる。だがシャロがそれを止めた。
しかし、女性から見るとその制止すら利敵行為……つまり、シャロがレインスを庇っているように見えたらしい。更なる追撃に出ようとする女性。これ以上優しかった女性を失いたくないシャロはわき腹から血を流しつつ涙を流して止まるように懇願した。
そんな少女を女性は鼻で笑うと彼女は告げる。
「何泣いてるのよ! 本当は汚れ切って頭もおかしくなった私を笑ってるくせに! もういいわ! 二度とその顔を見せないで頂戴! 早く行って!」
「…………わかり、ました」
「早くと言ってるのが分からないの!? 早くと言ったら今すぐでしょ!? 何でわからないのよ!? まだ私を嗤い足りないの!? 放っておいてよ! 早くその人間モドキと一緒にどこかに行ってしまいなさい! 今度はその傷程度じゃ済ませないわよ!?」
「い、今までお世話になりました……!」
無茶苦茶な要求にも文句も言わずに従う白霊虎。彼女は動くのもままならなくなっているレインスに肩を貸し、移動を始めた。
「く……俺はいいから。君は……」
「ごめんなさい、私のせいで……巻き込んで……」
(いや、仙氣を練りたいから動かすのをやめてほしいんだけど……主をなくした白霊虎がどう出るのか分からないから困るな……)
謝罪しながらのろのろと共に逃げる二人。レインスからすれば痛みで集中が途切れるので動かさないでほしいのだが彼女は必死にここから逃げようとしている。
その背後から、女が再び襲撃して来た。
「ああァァァァアァッ! 邪魔よ邪魔! 死になさい!」
「ぐッ……」
「奥様! もうおやめください!」
「言われなくともあんたたちなんかとこれ以上関わりたくないわよ! あんたたちは死ぬまで一緒にぐずぐずしてなさい!」
捨て台詞を吐き捨ててレインス達を押しのけた女はそのまま扉から全力で屋敷を抜けるために駆けていく。シャロは申し訳なさそうに突き飛ばされて地面に倒れたレインスを担ぎ直して頭を下げる。
「すみません、すみません……本当は優しいお方なんです。だから」
「今はそれどころじゃない、から……くっ、こんなところで死ぬわけには……こうなったら仕方ない……」
最後の手段に出るレインス。彼の最期の手段、それは薬と称されるものに治療の効果を高め続けるために仙氣を込め続けた丸薬だった。
(これは、時間の経過と共に回復力が増すものだから獣魔族との戦い後まで取っておきたかったけど……こうなったら仕方ない……)
丸薬を服用したレインス。すると微量ながら仙氣が回復した。それを実感するや否や、レインスは全身の氣を巡らせて移動能力も取り戻す。そして彼はシャロを連れてこの屋敷……加えてヌスリトの町からも逃げ出すのだった。
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