第33話 おはよう!

 誰もいない閑散とした街を、ひとりの少女が歩く。白いブーツの踵が、かつんと石畳を跳ねる。

 いつもは雑多に人が行き交う広場は、今は彼女の独擅場だった。

 ふんふん、白い喉が調子外れの鼻歌を歌う。アコーディオンが奏でた原曲を辿りながら、彼女が拙く音を再現した。



 ぴょん、弾んだ彼女が青色の髪をなびかせる。

 長いそれは腰まであり、頭には白い花の髪飾りをつけていた。



 二階に窺える大きな硝子窓の喫茶店を見上げ、少女が青色の目を笑ます。

 にんまり、後ろ手を組んだ彼女が、大股で石畳を進んだ。


 立ち並ぶ露店はどれももぬけの殻で、出来立ての食べものが湯気を上げて放置されていた。

 開いたレジや、転がる商品。全てのものが中途半端に残されていた。


 音楽を奏でていた青年のいた箇所をまじまじと見詰め、彼女が唐突にその真ん前で屈み込む。

 膝を抱えた少女が、再びふんふん、先ほどの鼻歌を歌った。


 ぴょん、元気良く弾んだ彼女が立ち上がる。そのまま駆け出し、誰もいない街道を走り抜けた。


 勝手知ったる調子で路地を覗き込み、彼女のブーツが煤けた階段を上る。

 右手が掴んだドアノブが、呆気なく開かれた。蝶番の音が鳴る。


 にっこり笑った彼女が、白を基調とした室内へ踏み入る。

 清潔感のある内装を見回し、色濃く残る先ほどまで人がいた様子を順に辿っていった。



 ――袋の空いた芋けんぴ、カップに残されたお茶、本棚に仕舞い損なった書籍、カーテンを巻き込んで閉められた窓。



 少女が窓を開けた拍子に、通り抜ける風が彼女の髪とカーテンを膨らませる。

 揺れる白布をその身に受けながら、彼女が窓から身を乗り出した。

 大通りを見下ろすことの出来るそこは、音のない世界を彼女へ与えた。

 機嫌良さそうに靴底を鳴らした少女が、ソファのスプリングを弾ませる。

 乱雑に畳まれたブランケットを広げて頭から被り、くすくすっ! 喉が笑った。


『 おはよう わたし の セカイ 』


 ひび割れた電子音を幾重にも重ねたような、異質な声だった。




 *


 強制終了を行った平野が深く息をつく。柔らかな茶髪の、年若い青年だった。

 首から提げる名札がゆらゆら照明の明かりを弾き、緩慢な動作で彼が額の汗を拭った。


「うわっ!?」


 パソコンを覗いていた主任の男が、驚愕の悲鳴を上げる。

 のろのろと自分のデスクで確認すれば、これまで塞き止められていたのだろう、救援要請と思わしきメールが、怒涛の勢いで受信されていた。

『思わしき』とつけたのは、その全ての文字が解読不能な文字列へと変換されていたからだ。


 平野がため息をつく。彼の後ろを右往左往する他のスタッフ。

 このような時間まで残って、彼等は問題の原因解明に走り回っていた。


 仮眠室の方から、何名かの悲鳴とすすり泣く声が響く。

 数拍遅れて作業場へ顔を出したのは、ぼさついた黒髪に眼鏡をかけた、目付きの悪い男だった。


「平野」

「先輩、大丈夫ですか?」

「おう。お前か?」

「はい」

「助かった。恩に着る」


 目の下の隈の濃い男、一瀬に手を差し出され、平野がその手に利き手を打ち合わせる。

 小気味良い音を鳴らし、一瀬が上司の机へ脚を進めた。


 定期連絡が途絶えたことに、主任の男は慌てた。内部状況を確認しようにも、連絡が取れない。

 突然のシステム異常に原因を調査している中、平野が緊急発信に気付いた。

 ユーザー名を視認した瞬間、彼はこの異常事態がより深刻であることを悟った。

 次いで上がった一瀬の名前に、彼は迷わずゲームの強制終了を行った。


 強制終了など、よっぽどのことがない限り触ることがない。心臓に悪い、平野は動悸を訴える胸を擦った。


「チーフ、第5の説明、いいっすか?」

「ああ……」


 一瀬のぶっきら棒な声が響く。腹回りがふくよかな主任の男が神妙に頷き、彼へ具合を尋ねた。

 機嫌が悪いことと頭痛以外は優良な一瀬が、苛ついた口調のまま説明を始める。


「20時半頃からログアウト出来ないトラブルが発生し、救援要請を送るも認知されず、協力者を得て何とか外部へ連絡を取りました。

 その際、協力者が件のネット情報から、『ログアウト出来ない』噂を発見しています。あのサイト、焼き討ちにしませんか?」

「一瀬くん、物騒なこと言わないで……」

「あの自立修復プログラム、ゴミ箱から成り上がって第5占拠しましたよ。

 とんだチート野郎じゃないですか。焼き払いましょう?」

「一瀬くん、落ち着いてくれ……!!」


 みなぎる殺意を表明する一瀬を、落ち着いていない主任が懸命に宥めようとする。

 一瀬が笑った。修羅を背負った悪人面だった。


「職失うかも知れないんで、盛大に討ち払いましょう。首取りましょうよ」

「そのときはちゃんと保険下りるからああああッ!!!!」


 恰幅の良い腹を揺すって立ち上がった主任が、必死に一瀬の肩を叩く。

 煩わしそうな顔をする眼鏡の彼を泣きそうに見詰め、主任の男が掴んだ肩を揺すった。


「大丈夫だ! 本社には連絡を入れてある! 詳しい連絡も入れよう! 何とかなる!!」

「ははっ。一緒に路頭に迷いましょうねぇ? チーフ」

「一瀬くん! これ以上チーフの胃を痛めつけないでくれ!!」

「でもあれですよね? 本社に話しても、『やったね、ゴーストバスターだよ!』って喜ばれそうですけど」

「飯田くんもチーフの胃を痛めつけないッ!!」


 飯田と呼ばれた女性が、メールをさばきながら口を挟む。

 疲れたように机に手を置いた主任が、重々しいため息をついた。

 彼が顔を上げる。彼等のいう本社は、海外にある。


「とにかく、本件は一連のエラー報告の根源でもある、『自立修復プログラム』の暴走と同じものとする。

 これら一連の事件の総称を『 nil 』と名付ける。引き続き、調査を行うこと」


 男の言葉が終わったと同時に、並んだモニタが突然明滅した。

 ぎょっとする職員を介することなく、煌々とともったモニタが一様にホワイトアウトした画面を映す。

 どのキーを叩いても何も反応を示さない画面が、雑音を鳴らした。


 長短のあるそれはどうやら調子外れのハッピーバースデーの歌らしい。

 歪な電子音は徐々に音量を上げて、全てのパソコンの機械音が合わさり重なり、耳障りな騒音を奏でた。

 耳が割れんばかりのそれに、主任を含めた職員全員が顔色をなくす。


 平野も両手で耳を塞ぎ、耐え切れないとばかりに立ち上がった。

 ハッピーバースデーハッピーバースデー、同じフレーズがキーを上げながら速度を上げて繰り返される。

 割れ鐘を早回しで叩いているかのようだった。

 耳鳴りに似た電子音がきいきい脳髄を引っ掻き、誰かが悲鳴を上げる。

 転げる音、椅子の倒れる音が紛れる。


 低く舌打ちした一瀬が、ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、平野の机を蹴り上げた。

 があんッ!! この世の終わりのような音が、ぴたりと祝福の歌を止める。


「うっせ。ご機嫌にハッピーバースデー奏でてんじゃねぇよ、このぼんくらパソコンが」

「先輩、それ、俺のデスクです」

「人間様の生活リズム考えろや。今何時だと思ってやがる。23時だ。

 うっきうきで大音量響かせんやな。近所付き合い考えようぜ? 朝一でごめんなさい巡りすんの、誰だと思ってんだ? 俺だよ。

 ご機嫌に仕事増やしてんじゃねぇよ、はっ倒すぞ。お前が全国へ向けた謝罪文書いてくれんのか? なあ。おら、さっさと打てよ」


 がんっ、灰色のデスクが長い脚によって再度蹴られる。

 スタッフ全員真っ青だ。怪奇現象を物理で黙らせた、一瀬が今最もこわい。

 主任が泣きながら叫んだ。


「一瀬くん! チーフがするから……!」

「舐め腐ったミスすんなや!! 日本語で打て!! お前それでも第5できゃっきゃうふふしてた実力者か! 使えねぇなッ!!」


 がんっ!! 三度机が蹴られる。

 先ほどまでそこに座っていた平野が、青褪めた顔でそっと一瀬越しに自分のパソコンを覗き込んだ。


 ホワイトアウトした画面の上部に走った、文字化けした文字列。

 はっと他のパソコンを確認する。

 ……一様に真白な画面が並ぶのみで、そのような文字列など欠片も見当たらない。


 たった一行、されど一行。

 新たに生まれた怪奇現象に、平野は激しい頭痛を覚えた。

 このパソコン、俺のなんですけど……!!


「もうやめてください先輩! そんなんだからサイコパスって恐れられるんですよ!!」

「お前がハッピーにエラー決めてくれたお陰でな、明日の業務がウイルスチェックと整備から始まるんだわ。これで俺らの一日が潰れる。謝罪と問い合わせでさよならだ。わかるか? 責任ってのがあるんだよ。

 なあ。わっけわかんねぇこと自爆する前によ、もっと淑やかに慎ましく生きる努力しようぜ? お互いおもいやりって大事だよな? お前の居場所も顔もバレてんだよ。ぶっ潰すぞ」

「先輩、どん引きです」


 がんっ! 机が蹴られる。低い恫喝は子どもでなくても泣きそうだ。

 突然光を失った画面が暗転し、何ごともなかったかのように起動時の画面を映す。

 一斉に『普通のパソコン』として立ち上がった機器を前に、ひどく顔色の悪い平野が口を開いた。


「先輩、机かわってください」

「ああ、へこんだな」

「そこじゃないんですわ。もっと繊細な神経でもの言ってるんですわ。そんなんだから先輩、クレイジーなんすわ」

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