公募に落ち続けるだけの人生について考えてみた
題名を打っていて悲しくなってしまった。でも、本当に今の所ただそれだけの人生だ。少なくとも、それだけの人生だと私は思っている。
というようなことを書こうと思う。ただの日記になってしまうと思うので、面白くもならないだろう。
梅雨なので、神経がぶくぶく水太りしてそんなようなことしか考えられない。頭も水ぶくれしているので小説もなかなか進まない。
出版社の小説の新人賞のことを公募と呼ぶのだということを、カクヨムに来て初めて認知したように思う。それはそうだ。ちょっと前まで回りに小説を書く人間なんて存在しなかったし、自分が小説を書く人間だということも、ほとんど公表していないので、そんな話題になることもなかった。
自分一人で行っている行為に名前を付ける必要はない。だから公募という名前の認識をしていなかった。
少し前までは小説家としてデビューするのは、公募くらいしか道がなかったのだ。
今はこうして、WEBからデビューする人が多いわけだけれど。
つまり、私という人間の人生は出版社に小説を送り続けて、箸にも棒にも引っかからずにいる、ただそれだけの人生ということになる。
私という人間の価値を認めてくれる人はありがたいことに大勢いるが、そしてそのことを本当に嬉しく、ありがたく、尊いと思っているが、私にとっては私という人生に今のところ価値はない。ような気がする時がある。
でも別に小説家になりたいわけではないのだ。
小説家になりたい、という文を頭で考えた時に、うっと息が詰まるような気がする。何か、とてつもなく恥ずかしいような、とてつもなく罪深いような、とてつもなく惨めなような、そんな気持ちがする。
でも本当に、小説家になりたいわけではないのだ。
よく自分で文章を書くことしかしてこなかった、と言うことがある。それしかしてこない人生だったから、他に何も出来ないし、そうすることしか出来ないからしているだけだと。ときどきは心底そう思う。
けれど冷静になって考えてみると、最近はそうでもないような気がする。
私は脳を患ってしまった人間なので、少し前までは本当に、何も出来なかった。眠ることも食べることも呼吸もじょうずに出来なかったし(この場合「上手に」ではなく「じょうずに」といいたい。なんとなく)先生に毎日忘れずに飲みましょうねと言われた薬を、毎日じょうずに飲むことが出来なかった。兄が月火水木金土日とラベルの貼ってある薬入れを買って、これでちゃんと飲めるだろうと言ってくれたとき、優しくしてくれたのがとても嬉しく、跳ねるようにして喜んだが、同時に、私は自分という存在の価値をその時完全に失ったように思った。
そんなこともじょうずに出来ないと思われているなんて、と思ったのだ。けれど実際、その薬入れを使っても私はじょうずに薬を飲むことが出来なかったのだ。
人間、ということを思った。
人間が生きているということと、自分の生活について考えた。その著しい齟齬について。私はどう考えても人間ではなかった。私に、人間として生きている価値はない。
価値を取り戻したいと、ずっと考えている。
もしかすると、その頃の感覚が体の中に強く残っているのかもしれない。
そんな状態でも、私は物を書くということだけは続けていた。脳を患う前から文章を書いていて、漠然とこの先これで食べて行くのだろうと思っていた。純粋な気持ちで自分には「才能」があるのだと――これは考えていたわけではなく、単に認めていた。
今考えると恥ずかしいが、しかし、それこそが才能なのかもしれない。信じ切っていること、信じ切ってしまえること。
外からの評価でない才能は、きっとそういうものなのだろう。
そのかつての才能という「価値」が、脳を患ってからの「無価値」と強く結びついたことは間違いない。その結び付きが、より強固に、文章を書くことでしか生きられない、と私に思い込ませたのだろう。
だから、日に起きていられる時間が三時間くらいしかなくても、あるいはほとんど永久と思えるあいだ眠りにつけなくても、一日二錠までと言われた薬をハイになって30錠も40錠も飲んだりした日も、私は文を書いていた。あるいは、文を書こうと唸っていた。
次の日に起きて、ミミズのような字でノートに書かれている文章は、ぎりぎり人語を操れているというレベルのもので、読めたものではなく、そもそも私にはそれを書いた覚えがまったくなかった。
そんな状態で、まとまった文章をまともに書けるはずもない。
だから本当は、そこまで公募に応募し続けている、という訳ではないのだ。落ち続けている、というのはちょっと誇張かもしれない。
唸り声を上げて何事かを紡いでいるだけで、実際にちゃんと小説として出来上がって、応募出来たのはそれほど多くないはずだ。記憶が失われていて覚えていないけれど、せいぜい十何回とかじゃないだろうか。
まぁでも十五歳くらいの時にはっきり文章で生きていくんだな、と思い、それから十五年以上唸り続けているのだから、やはり「落ち続けている」と言ってもよいだろう。
今や、私の脳はかなり良い状態になっていて――といっても、治ることはない。一度壊れた脳は元には戻らない。だからみんな本当に無理をしないで欲しい――最近ではバイト先での擬人化も相当上手になり(この場合は「じょうず」ではなく「上手」だ。なんとなく)むしろ出来る人みたいな扱いを受けている。連日連夜の失敗も、私は怒られたくないので、どうしようもない時以外は黙っているが、あの子はこんなことをしないだろう、みたいな感じで許されている。模倣は最大の防御だ。
夜もなんとか眠れるし、ご飯も食べられるし、お肉だって食べられるし(魚は好きだけれどじょうずに食べられない)呼吸もだいたいちゃんと出来ている。
人間としての価値は、もうほとんど完全に取り戻したといっても良い。
残念ながらお先真っ暗、バイト生ではあるけれど、それはもうだいたいみんな見通しが悪いのだから、全然普通だ。ちゃんと働けていて私はとても自分を偉いと思う。
実際に、文章を書いていればそれだけで幸福なのだ。私は「実際に」という表現がとても好きなのだな、と今突然思った。
物を書いているのが人生で一番楽しい。それ以外はだいたい全部飽きてしまうけれど、文章だけは飽きない。暗い話も阿呆な話も書いてて楽しい。
この「楽しい」というのは、生きているという喜びのことで、文章を書いているとき、はじめてわたしは世の中の色彩を知ることができるし、人の喜びが分かるし、好きと嫌いが出来る。
それなのにやはり、私は今の私の人生に価値があるとは思えない。
きっと、私の書いたものに、社会が価値を与えてくれない限り、私は私の人生に価値を見いだせないだろう。
文章を書いているのは楽しいから、別に誰に認められなくても一生書いていくだろう。
しかしそれとは別に、社会的な生き物として、私は私の書いたものを誰かに読んでもらいたいし、読んでもらって「最高!」とか言ってもらいたいし、元気になってもらいたいし、私のことを分かってもらいたいし、分かりたいし、人生大変だけれど一緒に生きていこうねって言いたいし、あわよくば全人類にちやほやされたい。
だから公募に応募しつづけて、落ち続けている。
毎日、私の書く物にはなにか決定的な「落ち度」があるのじゃないかと不安になる。だからいつまでも落ち続けていて、それに気が付かない限り落ち続けるのじゃないか。
もしかしたら普通に文章が書けていないのかもしれない。私が面白いと思っているがそもそも誰にも面白くないのかも。
ただ、最近はこうしてウェブにあげることも出来るようになって、良かったよーとか言ってもらえて、本当にとてもありがたい。生きている心地がする。すごく嬉しい。
それにしても私は自分が何を書けるのかがよく分からない。純文学とエンタメのちがいもはっきり分からない。
自分の書いているのはなんなのだろう。カクヨムにあげているのはエンタメを書こう!という気概でやっているけれど。
自分で書いた長編で、これが完璧に書ければもう人生に後悔はないかもしれないなというお話があって、もうかれこれ9回くらい書き直しているんだけど、それがなんのジャンルなんだか分からない。っていうかジャンルって何?
なんか急に口語体になってきたのは、今私がバイト先にたどり着いて、トイレでこれを書いているからなのだけれど、なんかまたうやむやのままこの日記が終わりそうだなという気配があるね。
今まで落ちて来たやつをカクヨムコンにあげてみようかな、と思ってこれを書き始めたのだった。ただ、ウェブ上で読むに足りうる文章なのかが分からないなって。
ね。大変だよね、いろいろ。みんなも頑張ってて偉いよ。私もこれから頑張ってお仕事だから偉いよ。みんなで幸せになろうね。
そろそろトイレにいすぎだと思うのでこれで終わりにする。早く梅雨が終わればいいね。それじゃあまた!
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