ラムネ派紅茶党日記
犬怪寅日子
すべての群れの客である
わたしに花札を教えてくれたのは、全身火傷で入院していた、入れ墨のあるおじさんだった。小学校一年のとき、青信号の前で右を見て、左を見て、前へ進んで、車に轢かれた。もう一度右を見なかったからだ。
4ヶ月入院した。
夏の始まりから秋の終わりにかけてだったか、夏の終わりから冬にかけてだったか、まぁそのどちらかだったと思う。
季節はほとんど数字なので覚えていられない。もうずっと数字と折り合いが悪い。
ともかく、小学校に入ってすぐであることは確かだ。
小学校という高度な人間生活の最初の一歩から、もう一歩を踏み出そうという時期に、強制的にその場から退場せざるを得なかった訳である。
入院中、クラスメイト全員から「はやくげんきになってね」というメッセージ入りの作文をもらった。
あまり話したことのない人間がたくさんいて、私が病院のベッドの上で、大腿骨を太い針金で串刺しにされ、寝返りもできないでいる間、彼らはのぼり棒で遊び、一輪車で遊び、またおにごっこで遊んでいるらしかった。
その時はまだ溌溂とした子供だったので「はやくいっしょにあそぼうね」という明らかに取ってつけられた文に対して「そうだねー!」と天井に向かって答えていた。
まだ自分が群れから離れていることを、知らなかったのである。
退院して初めての給食の時間、急激にそのことに気がついた。
配膳が終わると先生が何ともなしに「今日は4班ね!」と言い、するとまわりの人間が次々立ちあがった。そしてなんと、なにかを歌い始めたのだ。
私だけが座っており、しかし、私にそのシステムについて教える人間は一人もいなかった。
私は4班だったのだ。
消失している間も、常に4班のメンバーとして数えられ、ゆえに誰も私が自分の所属を知らないということを知らなかった。
その時は、まだ足が5度くらいしか動かせなかったので、座りながら口をぱくぱくさせて、なんとか凌いだ。
ストレンジャー生活の第一歩である。
そうして今でも、どこかの群れに共通の感覚や規律を知らず、知っていても溶け込めず、端の方でしれっとぬるっと、ぱくぱくと口を動かし、溶け込めているふりをし続けている。
しかしこれは、配慮のない担任や、まだ自分のことで手一杯なクラスメイトたちのせいでは決してない。無論、今でも誰も歌を教えてくれなかったことは恨んでいるが、それはお門違いだ。勿論、今でも恨んではいるが。
私は同い年の子供たちと仲間になる前に、大人との生活を体験してしまったのである。
整形外科の病棟では、大部屋のほとんどが、というよりたぶん全員が骨折していた。逆を言えばこれは、誰も深刻な病気ではなかったということを意味する。
そして子供は私一人だった。
大人たちは皆優しく、楽しく、配慮があり、故に誰もが透明な壁を持っていた。
同病相哀れみ、同化したり、異化したり、過剰な嫌悪や執着を持ったりはしない。
子供のもつ傲慢さや、馬鹿正直さも持ち合わせていなかった。
誰もが一線を持ち、それを越えることも、越させることも許さなかった。
みな一様に私に対して温かく、朗らかで、親切で、人間が持ちうる柔らかい陽性を、その時にすべて与えられたのではないかと思うほどだ。
そこで4ヶ月も過ごした私は、大部屋の人々がすっかり入れ替わるのを3回は見たと思う。
あれだけ親切に、あれだけ毎日楽しくおしゃべりしていた女子大生も、まだ小さいのに可哀想にと言って涙を流した老婆も、車椅子レース大会を開いてくれたサラリーマンも、その後の私の人生に二度と登場しなかった。
みな、私に柔らかいものを与えるだけ与え、あるべき場所へ帰ってしまった。
これこそ、私が給食のときに歌う歌を「教えて」とも「知らない」とも言えなかった理由である。
人は壁を持っていて、その中へ入ってはいけない。人はここではないどこかに帰る場所を持っているので、溶け込むのはこわい(残るのは自分一人だ)なにより、人は温かく柔らかいものを持っているので、それを与えてくれるはずだと、今でも信じているのである。
そういう訳でいつまでも、どの共同体にも溶け込めず、反目もせず、温かく柔らかいものを待ち続け、私はすべての群れの客でいる。
しかし、旅の思い出を特別に覚えているのと同じように、客である私はその群れに与えられたさまざまな出来事をいつまでも大切なもののように覚えている。
急にテニスをするとアキレス腱が切れる。ベーゴマは押しではなく引きが重要。浴槽で赤ん坊を片手で持つのは危ない。亀は雨の日の散歩が好き。山の下り坂では特別なブレーキを踏む。
そして「こいこい」は、何もかも失う気持ちで挑むこと。
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