第2話 邪魅

2《七瀬》


「大学の同級生3人と旅行に出かけたんです。旅行の名目は今話題の心霊スポットを見に行くことでした。山奥のトンネルで。噂によれば工事の最中にそこで沢山の人が亡くなったそうです。――はい。不謹慎だったと思います。そういう意味では、こういう状況になってるのも自業自得ですよね」

 伊吹は無言で続きを促した。


「旅行に行ったのは、中学時代からの私の友人で同じ学科の絹川志穂。私たちと同じフランス語の授業を履修していた相良光太郎くん、北島晴彦くん。これに私を加えた4名でした。目的地には北島くんの運転するレンタカーで行きました。運転免許を持っているのは北島くん1人でした。『それ』に遭遇したのは目的地に着いて30分ほど辺りを散策したときでした」


 『それ』は白い獣のようだったという。四足歩行の白い獣だったという。白と言っても真っ白というわけではなく、頭部、尻尾、前足の関節のあたりには色鮮やかな緑色の毛が生えていたらしい。その体躯はいつだか動物園で見た雄のライオンほどもあったという。


「それだけでも異様な見た目なんですが、さらに、その獣には後足が生えていなかったんです。そもそもその獣は前足すら地面に付けておらず、宙に、浮いていました。まるで幽霊みたいに。『それ』は私たちに向かってこの世のものとは思えない気味の悪い吠え声を浴びせました。

 私たち4人は散り散りになって逃げました。志穂とは途中で合流したんですが。結局北島くんや相良くんとは朝まで会うことができませんでした。

 翌朝になってようやく2人と連絡を取ることができました。とりあえず4人とも無事であることがわかってとりあえず安堵したのを覚えています。

 とりあえず私たちはあれを場の雰囲気が見せた一種の幻覚だと解釈することにしました。だとすれば私たちが見たものの姿かたちまでが一緒なのはおかしいのかもしれませんが、誰もそのことには言及しませんでした」


 七瀬はひどく辛そうに語る加奈を見て、紅茶を飲むように勧めた。

「この茶葉、一応リラックス作用があるそうなんです」

 加奈はそれを口に含むと、少しだけ口角を上げて七瀬に礼を言った。


「あの日から今日でちょうど一週間が立ちます。その間に北島くん、相良くん、志穂が亡くなりました。北島くんはどう見ても誰かに殺されたような死に方だったらしいです。相良くんは交通事故でした。志穂は、自宅で首を吊っていたそうです。

 3人とも死に方は全然違いますけど、やっぱりこのタイミングは偶然に思えなくて。次に死ぬのは私だと思いました。

 とても怖くて。以前、うちのポストに入っていたこちらのチラシを思い出したんです。それで今朝お電話をおかけしたんです」

「なるほど」と伊吹「お任せください。あなたのことは必ず僕達が守りますから」


++


 七瀬はソファの上で眠る加奈に目を向けた。彼女は決して十分とは言えないはずの寝床で深い寝息を立てていた。余程疲れていたのだろう。彼女を起こさないように、できるだけ音を立てないようにしながら、その体躯に毛布を被せた。


 加奈には1人でいると危険なので、しばらくこの館で寝泊まりしてもらうことになったのだ。


「七瀬」

 伊吹が小声で呼んだ。伊吹は手指で七瀬を別の部屋へと促す。その空き部屋には伊吹と黒い子犬が床に座っていた。この子犬はミクモという名前で、七瀬にとっては伊吹より少しだけ付き合いの長い相棒だ。


「今回の相手は、おそらく邪魅だろう」

 ミクモが低い声で呟いた。彼は犬でありながら、しゃべるのだ。本人は長く生き過ぎたせいだと言っていたが、本当のところはわからない。


「邪魅聞いたことはあるなあ」と伊吹。


「邪魅というのは」とミクモ。「山林に溜まった瘴気なんかが妖怪化したものだよ。山神の一種だという説もある」


「じゃあ山で肝試しまがいのことをしていた哀座さんたち4人が祟りにあったっていうことなのか」

「だとは思うんだがな」


「何か引っかかってることがあるの?」

「邪魅という妖怪はもっと自然そのものみたいな存在なんだ。自然は時として特定の個や集団に牙を向くが、そこに悪意なんてものはないだろう。ましてや山なんて巨大な存在から見れば、人間4人なんてのは取るに足らないちっぽけな存在のはずだ。

 肝試しに行った4人の前に現れたのは納得できる。おそらく彼女らが逃げなければ危害を加えられることもあっただろう。でも下山してまで追ってきて祟り殺すなんてのは以上だよ。邪魅という妖怪はそこまでの指向性を持っているのだろうか。まあ妖怪のことは、俺のような妖怪にだってわからないことがある。お前達人間が人間のことを完全に把握していないようにな。だから何が起こってもおかしくはないんだが」


「奥歯に何か挟まったような物言いだな」と伊吹。


「ちぇ、言い難いことは俺に言わせようって腹かよ。そんなに七瀬のポイントを稼ぎたいのか」「そういうんじゃないよ」


 ミクモと伊吹が不毛な喧嘩を始めそうになるので七瀬は仲裁に入る。


「もう、加奈さん起きちゃうよ。何か気付いたなら言って。2人同時によ」


 ミクモと伊吹はお互いの出方を伺うように目を見合わせる。


「「あの依頼人は嘘を吐いている」」


++


 夕方になると、加奈は目が覚めたようだった。


「もうすぐ夕食にします」と七瀬は加奈さんに声をかける。

「あ、そうなんですか。すいません。居座らせていただいてるのに、何のお手伝いもしないで」

「いいんですよ。気にしないでください。料理作るの好きですから」


 七瀬の頭のなかには先刻あの2人が言った言葉が浮かんでいた。加奈が嘘を吐いているとすれば一体どんな嘘を吐いているのだろう。そしてなぜそんな嘘を吐いているのだろう。


 鍋のそこをお玉でかきまぜながらそんなことを考える。ちなみに今日のメニューはビーフシチューだった。


 夕食を食べ終えると、伊吹が、

「2人は先にお風呂に入ってきたらどうですか。俺はあとでいいですから」

 と提案する。


「じゃあ、そうしましょう」と七瀬も言った。


 七瀬は加奈を先導するようにして、屋敷のなかを歩く。すたすたという足音が2つ廊下に響いていた。


「随分広い家ですね」

 加奈は周囲を見回しながらそう言った。


「少し前にこのお屋敷の所有者のかたの依頼で仕事をしたことがあるのですが、そのことをご縁に無償で貸していただいてるんです。いずれきちんと賃料をお支払いしなければとは思っているんですが」


「鏡さんと彼方さんはこの広い家に2人で住んでるの?」

「はい。正確にはミクモという犬も一緒に住んでいますが。ここです」


 七瀬達は風呂場に到着した。扉を開け、脱衣所のなかへ入るよう加奈を促す。


++


「お風呂もすごいね」

 加奈は湯に浸かりながらそんな感想を漏らした。前の主人が風呂道楽だったらしく、この家の風呂場は大衆浴場並の広さの檜風呂であった。


 一方で七瀬は加奈の肢体を盗み見ていた。手足長いし、腰回りすごい細いし、そのくせ胸は明らかに平均以上ある。

――この人なかなかすごい身体をしているな。それに比べるとわたしは。いやいやわたしもあと3,4年経てばあれぐらいになるのかもしれない。


かがみさん」

 七瀬ななせは名前を呼ばれて、ぶしつけな視線がばれないように慌てて返事をした。


「さしでがましいことを聞くようだけど、2人って一体いくつなの? 正直なところ高校生ぐらいにしか見えないのだけれど」

――う……。そりゃあ気になるよね。今までも何度か聞かれた質問だ。ただでさえ怪しい商売をしているのに。どう見ても子どもにしか見えない連中がやっているのでは、その真偽に疑問を抱くのも無理はないよね。


伊吹いぶきが17。私はこの春で15になりました。でも安心してください。この業界あまり年齢は関係ないというか。それにわたしも伊吹も実は国内有数の名門の出身なんです。幼いころより厳しい訓練を――」

「そういうことじゃなくて!」


 少し呆気に取られた。どちらかといえば小さな声でしゃべる加奈が声を張り上げたからだ。出会って数時間の短い人間観察では彼女と今目の前で行った彼女の行為は結び付かないように思えた。


「そういうことじゃなくて。なんで2人だけでこの家に住んでるの? ご両親とかは。そもそも今日は平日なのに、昼間からいたけど学校には行ってるの?」

――ああ。なるほど。この人は心配しているのだ。わたしたちのことを。自分のことで手いっぱいのはずなのに。


「両親とはわたしも伊吹も数カ月の間会っていません。顔を見ていないという意味では伊吹は多分もっと。でも多分両親は心配していないんです。そんな親だから私たちは家を出ました」


「それでも、何かしかるべき施設に保護を求めるとか」

 七瀬は首を横に振るった。


「こちらの社会の論理は、わたしたちの世界では通用しません。そういう公的機関に保護を求めれば、わたしたちは家に連れ戻されるだけでしょう。そしてわたしにとっても伊吹にとっても家での生活は地獄を意味します」


「そんなのって……。家族なのに」


「あまり気にしないでください。わたしたちの世界では、こんな話はありふれています。幼いころより厳しく『教育』されるのも、学校に行けないのも」


「なんか鏡さん、大人だね」

「ありがとうございます」

「褒めてないよ。全然褒めてない。15歳なんだから。本当はもっと子どもでいなくちゃいけないはずなのに」


 そのあと七瀬たちはお互いの髪と背中を洗いあった。七瀬は、思えば誰かに身体を洗ってもらうというのは物心ついてからは初めてかもしれないなあと考えた。

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