若、夜しづかなれば

先仲ルイ

窓の月に故人を偲び

 塾終わり、週末の九時。

 まどろむ雨の帰路についた。


 傘を差せばよいのか判別つかぬほど小降りな雨が、私に沁みた。

 華の女学生、高校一年の私。ペットはチワワ。


 がぐお、と通り過ぎるヘッドライトハイビーム眩しい車。がぐお、がぐおと雨を滴らせハイスピードで次々と。


 ビニール傘は私の頭上で揺れていた。小さな水滴のようなものが斑点にびっしりと付いていた。雨も勢いを失くし降り止みそうだが、私はどう見えているだろう。


 歩き10分、小雨のような霧雨のような、微妙な距離を私は歩くのだ。

 歩け華の女学生。ペットはチワワ。


 結局は、そのまま傘を差しながら歩いていた。すると頭に大きな雫が冷たく落ちたような感覚があった。むむ、何やらおかしくはないか。サラサラボブヘアーを濡らした一雫。傘の頂点の壊れた可能性を思わせぬ、奇妙な胸騒ぎを感じた。

 歩道の真中で立ち止まり、ビニール傘を覗いてみた。覗いてみてもとくに破れている様子は無い。更なる胸騒ぎを感じ、ビニール傘越しに空を凝視していた「女学生アイ」が物体を捉えた。


 真暗な空雲、神々しく物体が光った。それは隕石だろうか、雲の切れ間から一瞬姿を覗かせたその光は、北東の方角へ落ちているかに見えた。火球というやつなのではなかろうか、誇らしげに「女学生ブレイン」がそう言っている。

 確かにこの光景はラッキーだ。暗く覆った雲の中で、今の物体を視認できたのは素晴らしい。しかし、まだ胸騒ぎは。というか胸騒ぎは増していた。


 10分。

 帰宅。玄関をガチャりと開け、ただいまとそれなりの声で言う。

 「おかあさん、さっき隕石を見たよ」

 傘立てに傘を突っ込み、乱暴に靴を脱ぎすて、リヴィングへ。そそくさと駆けた。

 「…む、おかあさん。おかあさんが居ません」

 居なかった。こういう場合は買い出しか、友達とパーティでもしているのか、テーブルに置き手紙があるはずだ。


 しかし置き手紙らしきものは見つからなかった。テーブルには半分まで飲みかけの、コーヒーのマグカップがあった。

 「じゃあ、おとうさん……は、お仕事だなぁん」

 お仕事だった。だいたい帰るのは私が寝付いてからだ。


 ソファにはおとうさんのメガネが開いたまま置いてあった。


 「ならば妹、妹は居るかな」

 妹は居なかった。学校に行っているはずだ。だいたい帰るのは私が寝付いてからだ。


 諦めてテレビを付けてみた。独りのリビングは明かりがついても寂しいものだった。流れる雑音。


「……て、続いてのニュースですが。たった今速報です。柊野銀行ビル6階、立て籠もり事件で、新たな情報が入ってきました。人質の一人であった、79歳女性の、戸菱 沙織さん、戸菱 沙織さんが、犯行グループの一人である男によって殺害された模様で―――」


 戸菱 沙織。それは私の祖母の名だった。しかしその名は私の中には存在しなかった。


 「おばあちゃんは、一昨年、交通事故で死んでいるもの」


 呆れた声で言う。しかし、本当に“一昨年”の“交通事故”で死んだのだろうか。だんだんと、記憶が不鮮明になっていくのが分かる。先程濡れた頭の頂点を左手で触りながら、右手でテレビを消した。


 おもむろに和室へ歩く、祖母の仏壇がある和室へ。

 暗い和室の仏壇に駆け寄り、写真を覗いた。


 それは、祖母ではなく、飼っているチワワの写真だった。

 否、飼っていたチワワ。


 そう、飼っていたチワワ……の、不思議と名前が思い出せず困惑する。

 頭を抱える。


 しかし、チワワは確か、友達とパーティをしているはずだ。

 だいたい帰るのは私が寝付いてからだ。


 おばあちゃんは、夕飯の買い出しに行っているのだ。

 だいたい帰るのは私が寝付いてからだ。


 おとうさんは、仕事で失敗したらしい。

 もう帰らないだろう。借金を残して遠くへ行ってしまった。


 チワワが死んだ。もう年だった、十分生きた。

 墓に埋めてやりたかったが、うちにはそんな金が無かった。


 おばあちゃんは、ぐったりと老いた体を起こし、一人ででかけたまま居なくなった。もう帰らないだろう。


 おかあさんは、ひどい誹謗中傷を周囲から受け続け、最後まで私を守ってくれた。

 今は私の部屋の押し入れに仕舞っているが、そう長くは続かないだろう。


 妹は、分からない。





 外へ出てみた。雨はもう、すっかりと止み、雲の切れ間から上弦の月が顔をのぞかせた。気が狂うほど綺麗な夜である。


 玄関を過ぎ、左か、右か。私は右を選びあるき始めた。今日は歩く夜だよ、ああ歩く夜だ。


 しばらく歩いていると、虫の鳴く音が聞こえ、夜鳩が歌った。

 みんな、夜はきれいだ。

 歩けば足音が心地よく、止まればそよ風がまた涼しい。

 

 人が家に籠もる時間、澄み切った街の空気が私を浄化した。

 新しい気分だ。これが如何に心地よいか。


 月の横に、また、神々しく物体が光る。

 

 私は一つの夜を通してまた気づくだろう。

 目に映るものは、おそらく全てが真実なのだ。

 この、顔の付いた空飛ぶ隕石でさえも。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

若、夜しづかなれば 先仲ルイ @nemusuya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る