アウトサイダーブルーの肖像

ふじこ

プロローグ:ある夢のあと

 慣れた道をひとりで歩くことがこんなにも不思議なものだとは思わなかった。まず、隣の人と並んで歩くために歩調を合わせる必要がない。隣の人とは背の高さが違うのだから、当然脚の長さも違っていて、何も考えずに歩いていたらどんどん距離が開いてしまう。それは、自分としても本意ではなかったから、隣を歩く、自分より背の低い年上の人に合わせて、ゆっくりと歩を進めていた。今日はそんな必要がなく、全くひとりで、自分のペースで歩いている。そうすると、周りの物事が目に入らなくなる。今日の川の色であるとか、足元に生えている雑草の名前であるとか、今すれ違った車の種類だとか、視界に入る色々をちゃんと「見よう」という気が起こらない。見えてはいるのだが、英語ならlook atとwatchの違いだとか、辞書のコラムに書いてあるような話になるだろうか。周りにある日常そのものといった光景に積極的に関わっていこうという気持ちが、まったく起こらなかった。こうして表面を撫でていくだけだ。ひとりになった途端味気なくなってしまった慣れた道を、それでも俺は歩いていかなければならない。

 待ち合わせの約束は破られてしまった。破られることは分かっていたのだから、俺は、約束を諦めてここに来ないことだって出来た。しかし、俺は、一縷にも満たない僅かな望みを諦めきれなくて、約束していた待ち合わせ場所にやって来て、ひとりで気楽に歩いている。今まではなんとかかんとか、諦めきれないままでやってこられたが、これからはどうだろうか。結果を分かっていたとはいえ、待ち合わせの相手が本当にやって来なかったことに、俺は存外に衝撃を受けているらしい。鼻の奥が熱いままなのは、さっきその事実を確かめたときにこぼれそうになった涙やら鼻水やらが、どうにか堰きとめられたままである証拠だろう。

「どうしようか」

 口に出してみても聞いてくれる相手は居ないのだし、誰かの返事があるわけでない。そもそも、何に対して口にしたものなのか自分でもよく分からない。でも、何かここから動き出さなければいけない、という気だけはしているのだ。いくら待っていても待ち合わせの相手がやってくることはない、のと同じように、ここで立ち止まってしまったが最後、一生動き出せなくなってしまうかもしれない。それでも良いかと少しは考えるが、いや、と首を横に振る。それじゃあ死んでるのと同じじゃないか。しかし、そのことの何が悪いだろうか。死んでいるように生きることの、何が。

 赤信号が点るのが見えて、黄色いブロックの手前に立ち止まる。歩道を渡った向こう側に、その一本だけが早々と咲いているソメイヨシノが一本ある。あの木は毎年、他よりも早く咲いて、春の訪れを教えてくれるものだった。今年もまた、他の木はまだつぼみが膨らんでいる途中であるというのに、その一本だけは淡い色の花を咲かせている。これを、本当ならばふたりで見に来る予定だったのが、ひとりになってしまった。どうしようもなく、ひとりになってしまった。俺はこれからもずっと、そうであることを引き受けていかなければいけない。そうすると、結局、どうしようか、なんていう問いに対する答えはひとつに決まってしまう。

「どうしようもない」

 それでも俺は信号が青になったら歩いていかないといけないだろう。それは、世の中の仕組みがそういう風に定まっているからでもあるし、その中に身を置く俺が自分自身で決めたことでもあった。脳天気な電子音の合図の後に、通りゃんせが流れ始める。信号の色は青になり、黄色いブロックの境目を越えて一斉に人が動き出す。それへ遅れぬように歩き出す。通りゃんせのメロディーを聴きながら、白と黒の縞模様の上を、あちら側の早咲きの桜に向けて、歩いていく。

 縞模様を渡り終えて黄色いブロックを踏んでも、通りゃんせの子供のごとく別の領域へ来た、という感じはしない。目当てにした桜はもうすぐそこだった。ブロックを越えて大股で三歩も歩けば、その桜の下へとたどり着く。まだ、三分咲きといったところだろうか、淡い色の花は枝を飾っているものの、枝そのものの焦げ茶色もまたよく見えた。この桜は生きている、という感じがする。

 写真を撮って送りつけてやろうかしら、なんてことを考える。しかし、それにもまた、どうせ返事なぞ来ないということは分かっているから、ポケットに入れかけた手を引っ込める。両手を空けたままで、桜の咲きぶりを見上げてみる。まだまばらな淡い色の花と、はっきりとした枝振りの隙間から、春の予感に霞んだ灰色の空が見えた。

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