鏡の迷宮

 左右には、剥き出しの高い崖がそびえ立っている。





 先程までは、普段からよく交通路として使われているのであろう太い谷を選んでアンズは馬を駆らせていたが、やがて脇道のような細い崖の割れ目へと進路を変えた。





「……今日は、ここで休みましょう」





と、アンズは道の途中にあった洞穴の前で馬を下りた。





 かなり長い距離を一気に走らせた馬は全身に汗を搔き、口角には白い泡を吹き始めている。これ以上、先を急ぐのはかえって不利益になると判断したのだろう。





 それに、空はまだいくぶん明るさを残しているが、崖に挟まれた道は既にかなり薄暗い。





 これ以上先を急ぐのはそれ自体が単純に危険だから、ここで一旦休むというのは合理的な判断だ。





「明日の夜明けまでには、ここに戻りなさい」





 アンズは背後を気にするようにしながら馬を下りて、馬に向かって言う。





 すると、馬は小さく会釈するような動きをしてからこちらへ背を向け、道を戻り始めた。先程、崖地帯に入る直前に川があった。あそこまで戻るつもりなのかもしれない。





「こんな所で……ごめんね、ハルくん。明日はきっと街の宿で泊まれるから、今日はここで我慢してね」





 アンズは俺を頭から脱いで胸に抱きながら、洞穴の中へと入って行く。





幅は三人ぐらいなら余裕をもって歩けそうなほど、高さは手を伸ばして少しジャンプすれば届きそうなほどの、充分な広さのある洞穴である。





 だが、中に獣臭さを感じないことからすると、





「何か魔物が潜んでいるということは……なさそうね」





そのようだった。





 というか、本来、こんな時、俺はアンズ以上に周囲を警戒していなければならないはずなのだが、洞穴の狭い壁に軽く反響するアンズの声を聞きながら、俺は全く別のことを考えていた。





――なんだろう……? この感覚?





 何かが……違う。





 だが……何が?





 アンズの柔らかな胸の谷間に挟まれるようにして洞穴の奥へと運ばれていきながら、俺はまるで夢の中にいるような奇妙な感覚に囚われる。





――俺は今、何か大事なことを忘れてるような……?





「お前がここに来ることは……解っていたぞ」





 入り口の微かな光がかろうじて見える辺りで、アンズがその腰を下ろした――その瞬間を見計らったように、洞穴の奥、深い闇の中から男の声が響いてきた。





 そして、足音もなく、まるで幽霊のようにすぅっと人影が闇から浮き出てくる。





「……俺は、お前にそれの破壊を命じたはずなんだがな」


「っ!? 魔王……!?」





 アンズはバッと立ち上がり、それから慌てた様子で俺を頭に被ると、敵意を剥き出しにした目で闇から現れた若い男――魔王ヴァン・ナビスを睨んだ。





「め、命令が、なんだというんですか? 別に私には、そんなものに従わねばならない義務なんてありません。私は――私たちは、ただ静かに暮らしたいだけ……あなたの邪魔立てをするつもりもないのですから、放っておいてください」





 黒い、ゆったりとしたフードつきのローブを身に纏ったヴァン・ナビスは、そのフードの下から鋭い黒瞳でアンズを睨み、一つ、長い溜息をつく。





 と、なんの気配も感じさせないまま、





「っ!?」





黒魔法・《アイス・アロー》を放ってきた。





 しかし、それは既に警戒していた俺のスキル・《氷結無効》によって防がれる。





「全く……つくづく面倒臭い」


「それは――私のセリフです!」





 アンズが身を少し屈めながら背中の大剣を抜き、ヴァン・ナビスへ刺突を放った。が、





「え……?」





 そこにはなんの衝撃もなく、アンズはその身体ごと勢いあまってヴァン・ナビスを『すり抜ける』。





振り返ると、そこには胸辺りから身体が上下に分断された、ヴァン・ナビスの後ろ姿があった。





と思うと、その全身の輪郭がふわりと崩れ、白い煙となって漂う。どうやらいま目の前にいたものは実体ではなく、魔力によって作り上げた虚像だったらしい。





だがともかく、その虚像を追い払うことには成功したか……と思ったのだが、その白い煙は、ねっとりとした濃度を保ったまま洞穴内に広がり始める。





「っ……!」





 アンズは口元を抑え、慌てた様子で洞穴の出口へと走り始める。





 しかし、すぐに目の前すべてが濃密な白煙で覆われ、下手に走ることもできなくなってしまった。





 特に咳き込んではいないアンズの様子からして、この煙は有毒なものではないらしい。とすると、これは煙幕のようなものか? 





そう思っていると、サッと幕を上げたように白煙が透き通り、視界が戻った。





が、周囲の思わぬ光景に、俺たちは言葉を失った。





目の前に立っているのは――俺たち自身。





 そして、目を丸くしながら自らと向き合っているアンズが、前を見ても後ろを見ても、果てしなくどこまでも連続している……。





ぼんやりと青い光を纏う鏡が、俺たちの周囲を不気味に囲んでいるのだった。





「これは……」


「ミラーハウス……というやつか」





 ……ん? なんとなく言ったけど……『ミラーハウス』って、なんだ?





自分で自分の口にした言葉にぼんやりと疑問を持っていると、





「やめて……! 邪魔をしないでっ!」





 怒声を上げながら、アンズが大剣を振るって鏡に叩きつけた。がしかし、





「っ!?」





 その一撃は簡単に弾き返される。





 接触の瞬間、鏡が微かに青く発光していた。ある意味、当然だが、これは本当の鏡ではなく、魔力によって作り上げたられた鏡なのだろう。





 空間全体に響き渡るようにして、ヴァン・ナビスの気怠げな声が響く。





「何をしても無駄だ。この空間は内側からでは決して壊すことができない。早々に諦めたほうが身のためだと俺は思うが……まあ、好きにするがいい」





そう言うと、おそらくこちらへ注いでいた魔力の流れを大きく減らしたのだろう、ヴァン・ナビスの気配が遠ざかっていくのを俺は感じた。





「出口のない鏡の迷宮……か。これは、どうしたものだろうな」


「…………」


「……アンズ?」





 こちらの言葉に何も応えず、アンズはどこへと続いているかも解らない迷宮の奥をじっと見つめている。そして、やがて呟いた。





「……よく考えたら、これでいいのかも」


「これでいい……? どういうことだ?」


「……ごめんなさい、ハルくん。少し疲れちゃったから、休むね」





 言って、アンズはその場に腰を下ろし、頭から俺を脱ぐと、俺をその胸に優しく抱きしめた。





『これでいい』





 という言葉の意味はよく解らないが……そんなことは俺の気にすることじゃないか。兜である俺の仕事は、持ち主を守ることだけ……それ以外には何もないのだ。何も……。

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