優美なタイピング

韮崎旭

優美なタイピング

 優美なタイピングなど、望むべくもない。誤字に次ぐ誤字、脱字、落丁、乱丁。もとより優美とは程遠い性格だった。基本的な趣味がどぎつい。それはいいのだけれど、と目の前の本棚兼観葉植物に向かい言葉の壁打ちをする。壁は良い。無駄口をきかないし、どんなに理解可能性の低い構文や錯乱した文章としてまず成立していない言葉の羅列を投げつけようが、気分を害さない。壁には気分がないのであろう。けだるさと憂鬱さがピークだった。電力消費量のように、ピークシフトをするべき。全人口の憂鬱が一定の時間帯に集中すると、供給や流通がパンクする恐れがあるし、非効率だ。優美さには、縁もゆかりもない。それに関して何か叙情をする能力がない。自問自答を重ねていると、精神が徐々に、だが確実に失調する。すべての対象は鏡。祥子171fの(群馬県農業試験場E-81シリーズの中の170系のサブカテゴリイ。)心身の醜さを余すことなく露呈させる。すべての人間の醜さを観測すべく、人間たちは動き回り、歓談し、ものを食う。自己嫌悪に陥るために。概念的な豚とかが、豚たちの望みだ。だが彼らはすでに概念になって久しく、したがって(実体を持たないゆえに)豚を食べることができない。もともと畜産業界における豚の扱いに関心がなかった。しかし、目の前の食品は組成という点では基本的にごみと差があまりない。これは、可燃ごみの中の生ごみというごみに関して述べられていることだが。食品のごみとしての潜在能力は非常にたかい。特に、水分量が多い食品は。例えば、カレイの煮つけ。すぐ腐るから、食中毒を起こす前に、廃棄しないといけない。食中毒に関して、自前の料理への厳格な検査を行う人間はあまり見られない。だから、食中毒に関する啓蒙キャンペーンを四六時中行う。そうでもしないと、外観だけで判断して、有害な微生物の個数が明らかに食中毒発症レベルなのに気にもせずにその食品を食事し、最悪救急医療の対象になる人間がやたらにいる、という悲惨が起きかねない。

 外観が人間だったから人間だった。あたりは陽気な曇り空を反映した、陽気な群衆であふれているのだが、群衆と呼ぶには統制も協調性も共通点もなかった。書き割りと呼べば災難が少ない。さて、祥子171f(以下、祥子)はついさっき購入した書籍のフィクションを読んでいたために、より一層の違和を現実と呼ばれている環境に抱いた。何だこの過剰な明白は。焦点がどこにでも合うあたりが異常だし、均されていないノイズが、要求された情報よりはるかに多い。あらゆるものが警告を発しているような、無駄な緊張感をひしひしと受け取ってしまう、よくない。なお、祥子を冠した人間が以降登場しないことが、祥子171fを今後単に証拠と呼ぶことを可能にしている。でも、人間は一見、生々しいので奇怪で醜悪に見えるが、それを程よい情報量にまで納めることに成功しているのが、この試験場より出荷される人間たちになる。もっとましな半規管を持っていると思ったが、車酔いだろうか?半規管たちがのびのびとのたくっているので、祥子は上下などの感覚に歪みを感じている。気圧のせいかもしれないし、気温のせいかもしれない。いずれにせよあまり関わり合いになりたくはない環境だな、特に、あり方に一貫性が感じられないあたりが好かない。近視眼的な強迫を感じずにはいられない。タイピングはひどく稚拙で懐かしい。隣で菓子パンが手招きしているが……。


「でもとても、愁訴に近い光景だった。私、知らなくて、それでも、漠然とした美の傾向は感じ取ることができたような。」


 祥子の内省の混乱は基本的な設定だ。内省が十分すぎる陽子シリーズがえてして、主に心理的なあり方に由来する短命だったことからその不具合を、機能の極端な制限で解決してみようというコンセプトで祥子シリーズの内省は作られている。しかしこれは勿論科学ではなく魔法でもないし、そうですね、Wissenschaft……。それなりのすばらしさによって信仰を得ている現代の宗派の一つである。例えば。

君がひまわりやカスタードのように朗らかに咲くように祈って名付けたという経緯はない。名前の候補が16くらいあったが、あみだくじで名は決められていた。ほかには朋樹が候補だった。性別のなさそうな生き物が近年人間の在り方のトレンドなのだが、祥子(朋樹の可能性もあり、農業試験場の関係者で祥子のことを「旧・朋樹」と呼ぶ人間もよくいる。)休憩所で砂糖たっぷりのブラックコーヒー、重ねた季節の、思い出だとか感傷だとかを苦さで塗りつぶして、不安げな空は緊迫感に満ちたさまで崩落しないことを続けていた。確かに郷愁はあったのだろう。だが、その具体的な対象が何年も前に失われており、文字記録も保管年限の関係で裁断ののちに破棄されているので、たとえばわたらせ渓谷鉄道のような駅舎にたちよって無為に時間を過ごしてしまうことだって、あり得ない話ではなくなってきた。そう、休憩所のコーヒーはあまりに重たい憂鬱と不全感、ぼんやりとした抑圧、などへの処方だった。食品である。というのは、つまり関連する法令などにおいて、それは食品だといわれていたので、法的には、誰が何と言おうが食品だ。朱鷺四朗はそういった祥子のうちの一人の友人の一人ということにしてある。相互に先方を友人扱いしたのでそうなる。親称で呼ぶような、気の置けない友人。薬理作用のせいで今回は抑うつの減少を見た。普通に考えて、よりひどい鬱に陥らないことを保証できないと思うだろう?覚醒剤である以上は、憂鬱が尖鋭化しないのかなどの危惧はないのか。経験上、鬱的気分が減少した回数のほうが多いために、砂糖たっぷりのブラックコーヒーを、何も考えずに自販機で購入した。隣に給湯室があったのに。

「残念ですが、私の意識は消耗品でね」

 そうですか、と無表情な証拠は、未知谷から出版されたソ連文学の特に詩に執心している。抑うつの程度にもよるが、やみくもに糖類を投与する。冬が近いことが、玄関の戸をがたがたとうるさい音を立てて揺らす風の強さの印象から知れた。というか冬だった。太陰暦のほうにはまるでぼんくらなのでだめなのですけれど。だが問題だったのは、何一つ足りていないことに無自覚に反応して身体症状でもってそれを表現するようなありさま。丁寧語の使い方を忘れたかのように、終始無言。別に言うべきこともないので、仮に言いたいことがあっても、四六時中口に出したりはせずに、黙り続けている。あまりにも寡黙だったので、機械的な要因で発音できないのかと思われた時がある。疲れていたから、発音の方法を脳裏のガラクタ置き場から、拾い上げてくるそんな余裕がどこにもないので、ただ『墓に唾をかけろ』の内容を暗唱していた。暗唱は岩波少年文庫版のジャバウォッキーに端を発し、現在では『晩年』(太宰治)の一部なども可能になっている。最近特に増えたバリエーションはない。対人の発語においては非常に処理能力が使われてほかのことが何もできなくて、こんなにも曇った空なのに今にも大気がガラスのようにもろく硬く鋭く、砕けてしまうような頼りなさ、よりどころのなさの原因になる。

 道路の構造が複雑であるせいで、よく事故が起きる地点ではそのころ、トラック1台を含む玉突き事故が発生し、そのせいで一時通行止めに道路がされていた。都市計画の教科書に載るほど有名な、悪質な構造の道路だった。路肩が丈夫なことだけが、取り柄。誰も駅舎でアイシングたっぷりの「ヴィクトリア朝幻想怪奇小説集」にとりかかろうとは思うまい。だからアレイスター・クロウリーの『麻薬常用者の日記』が3冊セットで読まれているのですね。そう、朱鷺が誰にも何の配慮もなく話しかけたとき、疲労が限度を超えた曇天が水銀となって降り注いだ。あらゆる街を美しく飾る、墓地の宝石。

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