彼女と僕の小恋愛

桜草 野和

短編小説

 その日、僕は恋をした。





 彼女は傘を2つ持って、バス停で誰かを待っていた。





「はい。バスが来るまで使っていいわよ」





「あ、ありがとう」





 僕は彼女から借りた傘をさして、乗る予定ではなかったバスを待った。スーパーで買って来たカレーの材料が入った買い物袋を持ちながら、何分後に来るのかさえ知らないバスを待った。





「キスして」





 僕は彼女に言われた通りキスをした。柔らかな唇の感触が何かを溶かした。





「バカ! 何するのよ!」





 彼女は僕にビンタをした。





「だって、キスしてって頼まれたから」





「あのね、普通は躊躇するでしょ。出会ってまだ5分も経ってない女に、どうしてすぐキスできるわけ? 私はただキスをしてと言いたかっただけなの!」





 そうだったのか。





「だいたい私が待っている相手が彼氏とか考えなかったわけ?」





 もちろん考えた。というか、それが今、一番知りたいことだ。





「もちろんチキンでしょうね?」





 質問の意味がわからず、僕が困っていると彼女は、買い物袋を指差した。





「ああ、カレーのこと。そうだよ。チキンカレーを作るんだ。一人暮らしのおばあちゃんの家に行って」





 嘘だ。チキンカレーは本当だが、おばあちゃんはおじいちゃんと仲良くキャンピングカーで旅に出ている。


 芸能人に充電を頼まれて、今度テレビに出るかもしれないとLINEが送られてきた。





「よかったわ。チキンカレー派で。いきなりキスされた相手が、チキンカレー派でなかったら、人生最悪の日になるところだったわ」





 バシャッ。歩道スレスレをトラックが通り、道路に溜まっていた雨水が彼女をずぶ濡れにした。





 僕はちゃんと避けた。危うくカレーの材料が台無しになるところだった。





「なんで、自分だけ、避けているわけ? 普通、傘を借りている相手を助けるでしょ」





 彼女は怒りっぽい性格なのだろうか? 僕を睨みつける。





「ごめん。僕、普通じゃないから。ごめん」





 僕は幼少の頃から、普通というものが理解できなかった。みんなはどうやって普通というものを学ぶことができたのか、未だに謎だ。





「あー、カレーのルー、甘口じゃない! ガキね!」





 彼女にバカにされていることはわかるが、怒る気にはならない。だって、僕が買ったカレーのルーは本当に甘口で、彼女は正しいことを言っている。





「もう、なんなのよ、あなた!」





 彼女は平然としている僕が気に入らないようだ。





 雨が雪混じりになってきた。できることなら、この場でカレーを作って彼女に食べさせたい。料理は好きだ。料理だと僕は「普通においしい」と言ってもらえるものを作ることができた。





 バスが停まった。





 僕は彼女に傘を返して、バスに乗る。





 彼女は、おそらく父親だと思われる人物に傘を渡していた。





 僕はやっぱりバカだ。彼女にありがとうと言うのを忘れてしまった。





「君のこと、たぶんしばらく好きでいる」





 そんなことを、傘を返すときに言った記憶がある。





 彼女は、





「カレーを食べるとき、たぶんしばらくあなたのことを思い出すわ」





と言って笑っていた。











 15年後ーー





 僕は傘を2本持って、バス停で彼女を待っていた。





 雨は降っていないが、不審者と思われないように、「初恋の人を待っています」と大きな字で書いた傘をさして、彼女を待っていた。





 もちろん、15年間毎日、彼女を待っているわけではない。





 たまに海を見たくなるような感覚で、彼女を待ちたくなるときがあるのだ。





「しばらく、はまだ続いているの? 私がまだ小6だったあの日から今も?」





 彼女と再会して、まずはタメだとわかった。





「インスタで、不審者がいるってちょっとした話題になっているわよ」





 僕は傘を閉じた。不審者ではないと大きな字で書いたのに、どうして伝わらなかったのだろう?





「はい。この傘、ずっと使っていいよ」





「どういうこと?」





「プロポーズ」





 僕はもう一本の傘を開いた。そのビニール傘には、「結婚してください」と、小さな字で書いていた。彼女にだけ伝わればいいメッセージだから。





 ポツン、ポツン。雨が降ってきた。





 彼女は傘を受け取った。





 僕も傘を開こうとすると、





「その傘はもう必要ないでしょ」





と彼女は言って、僕を傘の中に入れてくれた。





「ありがとう。ありがとう」





 今の分と、15年前の分。今回はちゃんと、ありがとうと言えた。





「私ね、カレーは今でも甘口が好きなんだ。あなたのせいで」





 あの日から僕はカレーが嫌いになっていた。なぜか苦い味がしたから。胸が苦しくなるから。





 でも今日は久しぶりにカレーを食べたい気分だ。





「これからデートに行かない?」





「どこに連れて行ってくれるの?」





「もちろん、スーパーマーケット」





「キスして」





 僕は彼女にキスをした。柔らかな唇の感触に、また何かが溶けた。





 僕はたぶん、彼女を愛し続けることになるのだろう。


 彼女もそうだといいな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼女と僕の小恋愛 桜草 野和 @sakurasounowa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ