ANTHEM
ごんべい
ANTHEM 前
朝、目が覚めて、顔を洗い、着替えて、ご飯を食べて、学校に行く。
退屈な授業を聞いて、友達と下らない話をして、昼ごはんを食べて、また授業を聞いて、学校から帰って、宿題をして、ご飯を食べて、お風呂に入って、寝る。
それはごく当たり前のことになのに、どうしてどこかに違和感があるんだろう。
頭の片隅になにか思い出さなきゃいけないことがあった気がするけれど、思い出せない。それはずっと、私の思考の僅かなスペースを占有していて、居座っている。
なにか、大切なこと。なんだったけな。なにか、なにか、なにか……。
「メル、どうしたの、ぼーっとして」
「あ……。いや、何でもない……」
不意に、幼馴染のシノに話しかけられて、意識が現実に引き戻された。
「最近ぼーっとしてることが多くない? 風邪でもひいた?」
「ううん、大丈夫……」
12月、もう冬だ、と感じられるぐらいには風が冷たい。だけど、まだ何となく寒いとも言い切れない、そんな曖昧な季節。
秋とも、冬とも言えないような微妙な12月のはじめのころだ。
「そう? ならいいけど。楽しみにしてたライブだけど、メルに無理してほしくはないし」
「いや、私は大丈夫……だよ。いこ」
「そっか。でも体調が悪くなったら無理しないで早めに言うんだよ? メルはそういうところ我慢しちゃうからなぁ」
「シノ、過保護……。私、もう高校生だよ……」
「そうだけど、やっぱりほっとけないっていうか」
シノは私の幼馴染だ。引っ込み思案だった私にシノが話かけてくれて、それからずっと一緒にいる。
私はシノみたいに明るくないし、スポーツとか苦手だし、友達も沢山はいない。
だけど、シノの側にいると安心した。音楽の趣味は似ていたから、たまに一緒にライブに行ったりする。
それだけの関係だ。だけど、それだけで幸せだった。私はシノの側にいて、好きな音楽の話をして、一緒にご飯を食べて。それだけでいい。
それだけでいい、はずなのに。やっぱり何かが間違っている気がした。
ライブ会場は、それほど大きくなかった。駅の近くにある小さめのライブハウスで行われる小規模なライブだ。
X→LIST+、まだそんなに知名度はないけど、たまたま動画サイトで見かけた曲の雰囲気がとても好きで、私とシノはすぐに彼女たちの虜になった。
「ふぅ、間に合った間に合った。思ったより人いるねー」
「そう、だね……」
小さめの会場なせいか少し窮屈だけど、生でX→LIST+ の演奏が聞けると思えばそれほど苦じゃない。
「少しドキドキしてきたー。ボーカルの人、すっごい綺麗な声だったからなー」
「どんな人たちなんだろうね……。私も楽しみ……」
曲とPVはとても幻想的な雰囲気で、少し現実のものとは思えないところがあった。だから、私はこれから本当に彼女たちが目の前に現れるという実感がわかなかった。
会場はやけに静かで、ひそひそ声も聴こえない。わずかな息遣いすらも。
何かがおかしいような気がした。
「皆さん、こんにちは。X→LIST+です。今日は来てくれてありがとう。短い時間だけど、みんなに私たちの世界を見せられるよう、精一杯演奏しますね」
突然ステージ上から声がして、演奏が始まる。
静かなメロディーが耳を通り抜けて、心が揺さぶられた。やっぱり生で聞く演奏は違う。心臓に響いて、身体全体が震えるような不思議な感覚と、高揚感。
だけど、ボーカルの人の顔がよく見えない。いや、演奏している人たち全員の顔がよく見えない。
それは人が目の前にいて見えづらいとか、そういうことじゃない。
認識できない。脳が視ることを拒否しているような、そんな感じ。
彼女たちの顔が、姿が、よく分からない。ぼんやりと輪郭は分かる。だけど彼女たちが何者なのかが全く分からなかった。
そんなこと、別に演奏の素晴らしさに比べればどうでもいことかもしれない。透き通るような声、染み渡るようなピアノの音色、その全てが私の下らない感傷を、優しく拭ってくれる。
だけど、何かが、おかしい。何かがズレている。だから、私は彼女たちのことをうまく認識できないんじゃないの?
おかしい、おかしい、おかしい。そう思うたびに、歌声が私の猜疑心を宥めるように滑り込んでくる。
「……っ」
脳が揺さぶられる、心臓が痛い、耐え難い悪寒、震える足。
この音は私を慰めてくれている? 私を抱きしめてくれている? 私を受け入れてくれている? 別の世界を見せようとしている?
いや、違う、彼女たちは私を否定している――。
「っ――ぁ」
ついに耐えきれなくなって、私は会場から逃げ出した。シノのことも置き去りにして、演奏の途中だったのに構わず飛び出した。
あれは違う。少なくとも私の知っている音じゃなかった。何かがおかしかった。動画サイトで初めて聞いた時、私はなんにも違和感を覚えなかったのに、生で聞くと、はっきりと何かがおかしいと感じた。
それは、日常で感じているあの拭い難い違和感よりもっと強烈だ。言葉にはできない。私の奥底にあるなにかが警鐘を鳴らしている。
このままではいけない。このままでは取り返しのつかないことになる。そんな焦燥感がずっと私の心の中で燻っている。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ」
冷たい息を肺にいっぱい吸い込んで、人にぶつかるのも気にしないで、あてもなく走る。この息苦しいまでの違和感がどうにかして忘れられるように。
気づけば、どこかの駅前に立っていた。
「はぁ、はぁはぁはぁ、っ……、はぁ、っはぁ、ぁ」
うっすらと汗ばんだ身体と火照った頭が、寒空に吹く風で冷やされていく。
頭がぼーっとして、うまく考えがまとまらない。だけど、それぐらいでちょうどいいのかもしれない。
何も考えられないほうが幸福に違いない。自分の人生、生きている世界、その他全てがうまくいってる。それでいい。それでいいんだ。それで、いい。
一旦、冷静になると今度は不安になった。こんなふうに飛び出して、シノに嫌われたらどうすればいいんだろう。自分から幸福をぶち壊すことなんてなかった。
そう思うと、急に泣き出したくなった。バカバカしい妄想ともいえない強迫観念で、私はシノとの友情を失ってしまうかもしれないのだ。
「シノ……、助けて……」
「もう、探したよメル。こんなところにいたの」
「え……?」
振り返るとシノがそこにいた。いつもと変わらない、シノだ。黒くて長い髪が時折風に吹かれてなびいているのが、様になっている、いつものシノ。
「どうして……?」
「どうしてって、メルが急に飛び出しちゃうから……。はぁ、まだ性懲りもなく手を出してくるなんて……」
「え……?」
「ああ、ごめんこっちの話。今はとにかく落ち着いて、そしたら家に帰ろ。無理しないほうがいいよ」
「うん……。その、怒ってないの? 私が急に飛び出したて……」
「怒ってたら追いかけてこないから。そんなこと、心配する必要ないよ、メルは。私はメルのことを嫌いになったりしないから、ね?」
「うん……」
シノに抱きしめてもらって、ようやく安心した。シノの身体は温かくて、私が感じている不安の全てから遠ざかるような気がした。
これでいい。
シノ側にいることが私の幸福、それ以外のことなんて些細なこと。
そう思うたびに頭の中の拭いきれいない違和感が首をもたげたけれど、シノに触れている間だけは、そんな不安を忘れられたような気がした――。
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