第171話
そう、この地球上、ガットギターに関係する人間で彼女のことを知らない人などいないのだ。汀怜奈は恥ずかしそうに黙って頷いた。
「いや、感激だな。あなたのような世界的なギタリスタに来ていただけるなんて…」
しかし、感激して歓迎するマルティン氏の言葉など汀怜奈の耳に入らない。彼女は全く別なことを考えていた。思い切って佑樹のことを聞いてみようかしら…。
「不思議ですね…高名なセニョリータ・ムラセが、失礼ながら、こんな素人じみて粗暴な作りのギターを修理したいなんて…」
マルティン氏が、汀怜奈と橋本ギターを見比べながら首をかしげる。
「よっぽどいわくがあるギターなんでしょうね…」
汀怜奈は自分の目的が見透かされたようで恥ずかしさのあまり、橋本ギターを奪い返したい衝動に駆られた。
「わかりました。セニョリータ・ムラセのお頼みということであれば、特別に修理して差し上げましょう。見たところ、ブリッジに多少浮きが出ているようですね。そのほか、粗を探せばたくさんありますが…」
「ブリッジだけで結構です」
「わかりました。このブリッジをはがして、接着する部分のトップ板の塗装をあらためて紙やすりできれいにし、うちのブリッジと交換して張り替えましょう」
「すみません。よろしくお願いします。あの…修理代は」
「この程度の修理でしたら代金はいいですよ。そのかわりお願いがあります…」
マルティン氏がカメラを工房の奥から持ち出してきた。
「来ていただいた記念に、写真を撮らせていただいていいですか?」
汀怜奈は、話しの流れ上、断るわけには行かなかった。ああ、また肖像権を管理するDECCAのマネージャーに怒られてしまう。
マルティン氏がカメラに三脚を立てて、セルフシャッターをセット。で二人が笑顔でカメラに収まる間、汀怜奈は思い切って切り出してみた。
「修理は、マルティンさんご自身でやっていただけるのですか?」
「いや、私は今注文の本数を結構抱えていて…この程度の修理なら弟子にやらせようかと…」
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