第168話

 実は汀怜奈も、佑樹のその後の動向は噂に聞いていた。


 最近ではあるが、スペイン語も英語も話せぬ若者が、スペインのギター工房に座り込み、入門が果たせるまで居座り続けた話しを、スペインギター関係のハッシュタグのツイートを流し読んでいる時に知った。


 練習の合間には、スマホを手にしては僅かなキーワードからその真相をサーチし続け、ついにフェイスブックに入門を果たした日本の若者の顔を見たときは正直驚いた。佑樹だった。

 どんな心境の変化で、決まっていた大学への入学を蹴って、言葉も分からぬ異国の地に飛び込んでいったのか。あの時のおじいさまの話しの影響なのだろうか。汀怜奈には全くはかり知ることができなかった。すこし大人びた佑樹の顔をフェイスブックで見ると、今まで心の奥にしまいこんでいた箱の鍵が弾け飛んだ。中から抑えきれない衝動が飛び出してきた。


 佑樹に会いたい。会いたくて、会いたくて仕方がない。

 それならば、佑樹の家に行けばいいのだが、それは彼女のプライドが許さなかった。そしてなにより、彼が汀怜奈に放った最期の言葉が、いつまでも心に引っ掛かっていて、彼の家の門をくぐることができなかったのだ。


『もういい加減…先輩のフリをするのはやめてくれませんか村瀬さん。自分の好きな先輩はあなたじゃない』


 確かに私は佑樹を失望させた。だが、それがいったいなんだというのだ。


 一生の仕事として音楽家の道を選んだ自分にとって、大切なのは『ヴォイス』の探求である。佑樹の失望とか、佑樹との友情関係を失ったとかなど、大した問題ではないはずだ。そう頭では割り切っていた。割り切ってはいるが、なぜ自分の胸は佑樹に会いたいと叫び続けるのだろうか。


 汀怜奈は以前、佑樹に会いたくて、セルリアンタワー東急ホテルのフロント周りのロビーを1時間ほどウロついたことを思い出した。それは、プライドの高い汀怜奈が、当時佑樹に会うために実行できる最大限の譲歩行動だった。そして今、汀怜奈は自分ができる最大限の譲歩行動を再び実行しようとしていた。

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