第167話

おじいちゃんの骨が灰になった日から、5年の月日が経った。



 汀怜奈は、答えが得られぬ『ヴォイス』の幻影に悩まされながらも、その天賦の才を開花させて、世界的な音楽活動を積み重ね、その評価も不動のものとなっていた。


 今日もスペイン・マドリードでの演奏会を終え、帰国の準備を母親としているところである。


「ギターは全部日本に送っていいのかしら?」

「ええ、もう演奏の予定はないし、練習用を一本残しておいてくれればあとは送っていただいて結構です」

「ええっと、練習用はこれでしょ…あとは送りと…あれっ、これは?」


 母親が手にしたのは、古びたいかにも安価そうなギターだった。そう、5年前、佑樹が送ってきた橋本ギターである。


「あっ、それはブリッジが少し浮いてきちゃって…。こちらの知り合いの工房で直してもらおうと思ってるの、残しておいて」

「これ、確か石津さんのところからいただいたギターよね」

「ええ、まあ…」

「使いもしないのに持ってきてたの」

「だから、直してもらおうと思って…」

「日本でも直せるにわざわざスペインまで?」

「これを上手く直せる工房は、スペインにしかございませんのよ」


 汀怜奈が、母親にそっぽをむいて答えた。目の中にある心の乱れを気づかれたくないのだ。


「へえ、そうなんだ」


 母親が橋本ギターをケースにしまいながらひとりごちる。


「そういえば、石津さんの息子さん。たしか大学行くのをやめて、スペインへギター作りの修行に行ったって言ってたわよね」


 汀怜奈が母親の言葉に驚きながらも、動揺を隠すためにゆっくりと振って言った。


「お母さま、なぜそんなことをご存知なんですか」

「ご存知だなんて…だって、石津さんに聞いたもの」

「いつ?」

「…いつだか忘れたわ」

「忘れたって…いつ佑樹さんのお父さんとお会いしたの?」

「その話が出たのは、だいぶ前にお会いした時だったから…」

「その後、佑樹さんのお父さんとは?」

「…ええ…まあ…何度か…、先月にもお会いして…」

「やだ、佑樹さんのお父さんとお付き合いをされているのですか?」

「お付き合いって、何言ってるのよ…お友達なだけよ」

「わたしは始めてお聞きしますわよ。いつからそんな仲になられたの?」

「いつからって…5年前渋谷で映画を観に行って…ほら、汀怜奈に無理やり勧められた時よ。そのあと、石津さんのお父様が亡くなられたあと…そう、このギターを持ってこられて、お話して…。案外石津さんて博学で、お話しも面白いし、私のお話しも聞いてくれるし、その後月一ぐらいでお会いして、おしゃべりしたり、お食事したり…」


 今度は動揺を見透かされまいとしているのは、汀怜奈の母親の方だった。


「とにかく、私は明日の早い便で帰国するから、もう休ませてもらうわね。おやすみなさい」


 慌てて寝室に引きこもる母親の背におやすみの声をかけたが、汀怜奈も意外な佑樹の父親と自分の母親との関係を知って驚きを隠せなかった。

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