第161話

「なんでしょうか」


「以前、二階で弾いていた曲を、もう一度聞かせてはくれないだろうか」


 汀怜奈はおじいさんの願いに困惑し佑樹と佑樹の父親の顔を見た。

 ふたりの瞳には、おじいちゃんに聞かせてあげて欲しいと語っていた。汀怜奈は、頷いて佑樹からギターを受け取ると膝の上に置いた。


 ロドリーゴ作『小麦畑で』。汀怜奈は弾き始めた。美しい旋律と音色は、そこにいるすべての人々の心を浄化していくようだった。


 やがてすべての人々の瞳に、麦畑のイメージとともに、泰滋とミチエが織り上げた美しい人生の織物が広がり、その敷物の上に優しい微笑みを浮かべて腰かける女性の姿が見えてきた。泰滋が、床から立ち上がり女性に向かって歩んでいく。


『パパ、ひさしぶり。だいぶおじいちゃんになっちゃったわね』

『なにいうてんのや。五十年もたつのやから当たり前やろ。しかし、ずるいわ、ママはあの時とかわらず若いままや』


 泰滋の不満そうな口ぶりに、コロコロ笑うミチエ。彼はミチエの横に腰掛けた。


『でも、がんばったやろ』

『そうですね。結局わたしのメッセージは伝わらなかったけど、がんばりましたね』

『ああ、今になって知るなんて、傑作や』

『自分で札作っておきながらわからないなんて、パパらしいです』

『そない笑わんといてくれ。…ところで、やっと迎えに来てくれたんか』

『迎えるもなにも、私はずっとそばにいましたよ』

『そうやったんか、気づかなんだ。…でも、これからはずっと一緒やな』

『ええ、ずっと一緒です』

『ママ…始めて賀茂川を散歩した時に戻って、ミチエって呼んでええか』

『もちろん…パパは立派にお役目を果たされたので、あの頃のふたりに戻っても誰も文句を言わないと思いますよ。…泰滋さん』


 ミチエが甘えるように泰滋の肩に自分の頭を預ける。


『ああ…けど、五十年。本当に疲れたわ』

『これからは、また私がご飯を作るから、ゆっくり休んでください』

『ありがとう…けど、ミミズ入りのご飯は勘弁やで』

『まあ…泰滋さんったら』


 『小麦畑で』の演奏が流れる中で、曲とともに誰もがそんな泰滋とミチエのやり取りを聞いた。

 ギターをつま弾く汀怜奈でさえも、そのふたりの優しい会話を耳にして涙を流した。そして、曲の終わりとともに、美しい幻想も幕を閉じたのだった。


「じいちゃん…寝ちゃったみたいだよ」


 佑樹の言葉に我に返った父親と汀怜奈。おじいちゃんを見ると静かに寝息を立てている。


「親父はどんな夢見てるんだろう…笑ってるぜ」


 そう言って優しくおじいちゃんの頬に手を当て、じっとしている佑樹の父親。

 その様子見ていた佑樹と汀怜奈は、やがて視線をあげてお互いを見つめた。ふたりの視線は感謝とも慈しみとも言えぬ暖かさで絡み合っていた。


 おじいちゃんは、その日から一週間後に他界した。汀怜奈のギターを聞いた日から、目をさますことはなかったという。

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