第135話

 立ちかけた汀怜奈を押しとどめるように、スーツの男が声をかけてきた。


 汀怜奈は声の主を見たが、相手は見覚えがない男性である。男は汀怜奈から訝しげに見つめられて、バツが悪くなったのか、頭を掻きながら言葉をつなぐ。


「やだな、佑樹の父ですよ」

「まぁ、おとうさま…」


 トランクス一丁の姿しか見慣れていない汀怜奈だ、スーツ姿の彼が見分けられなかったのも無理はない。しかし、小説家の前は、大きな会社に勤めていたと佑樹に聞いたが、さすがスーツ姿は板についていた。


「すみません。見違えました…」


 父親は、少し顔を赤らめた。


「座ってもいいですか?」

「どうぞ…今日はどうされたんですか」

「いや新作ができたんで…ってもエロのほうじゃないですよ。本業の恋愛小説です。それを出版社に売り込みに来たんです。さすがに、パンツ一丁じゃこれないでしょ」


 汀怜奈は、口元を手で隠しながら笑ってしまった。


「やだな、似合いませんか?」

「いえ、似合っていらっしゃいます。かっこいいですよ。…それで売り込みは成功したのでしょうか?」

「いや、見事に撃沈です」


 ウェイターが父親のところにやって来た。オーダーを聞かれると、ちょっと困った顔をしながら、汀怜奈を見る。


「おとうさん、失礼をしたお詫びにご馳走します。どうぞ好おきなものをお頼みください」


 父親の顔がパッと明るくなった。


「えっ、いいんですか…悪いな…そしたら、コーヒーとカントリーマムください」


 今度はウェイターが困り顔をする番だ。


「おとうさん、さすがにホテルでカントリーマムは…」


 汀怜奈はウェイターに向いてオーダーを修正した。


「ハウスビスケットがあれば、いただけるかしら」


 ウェイターは安心したように返事をするとオーダーを通しに奥へ消えていった。


「いや、すみませんね。久しぶりに家を出たもんだから、うっかり財布を忘れちゃって…そうだ、その代わりっていうのも失礼ですが、出版社から映画のチケットを2枚もらったんで…いりません?」


 チケットを見ると、それはディズニーのアニメ映画『アナと雪の女王』の鑑賞券のようだった。


「なんで出版社がおとうさんに映画のチケットを?」

「映画のチケットやるから出てってくれって、担当が…」


 さすがの汀怜奈も、今度の笑いは手で隠せなかった。

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