第97話

 朝食の後片付けを終えて、ミチエが台所から戻ると、泰滋は堀ごたつに横になり腕枕でぐっすりと寝込んでいた。


 この男は、いったい何時に家を出てきたのか…。夜明け前とか言っていたから、眠いのも当たり前だろう。しかし、初めて訪問した他人の家の堀ごたつで、こうもすやすやと眠れるものなのだろうか。


 ミチエは当然知るはずもなかったのが、泰滋はミチエと有楽町駅で別れた以来、ほとんど寝ていない。寝られなかったのだ。寝られないものだから、じっと布団の中にいるのもの我慢ならず、電車が動き出す前とは分かっていても親戚の家を出た。

 しかし、なぜ寝られないのか、その理由が彼にはわからなかった。ミチエの声とか顔が何度か頭にチラつくことはあっても、彼女が寝られない理由であるとはどうしても思いつかない。夜明け前のプラットホームで震えながら始発電車を待っている時も、ミチエに早く会いたいからとは微塵も自覚できないでいた。


 彼にも恋愛らしき経験はある。大学生になりたての頃、ある娘に初恋らしき感情を得たが、その娘の住家が八条より外側にあり、その地域の住人との関わりを嫌う父親により仲を裂かれてしまった。

 その時は、さすがの泰滋も父親と大喧嘩をして抵抗したが、母親に泣かれて結局父の意思に従わざるを得ない結果となった。それ以来、父親と古い風習へのふつふつとした抵抗意識が彼の潜在意識の中に潜むようになったのだ。

 しかし、その時ですら、その娘のことを想って寝られない日々が続いたということはなかった。だから、自分が寝られない理由がミチエに結びつけて考えることができないのも、無理はないのかもしれない。


 実際にミチエに会ってみると、朝食で腹が膨らんだせいもあろうが、なぜか急に眠くなった。薄れる意識の中で、この妙な充足感はいったいどこからくるのだろうかと、問う言葉も完結できないまま、強烈な睡魔に負けて堀ごたつで寝入っている。


 そんな彼の事情も知らずミチエは彼の寝顔を不思議な生物を眺めるようにしばらく見入っていた。


「みっちゃん。この大学生、何しに来たの?」

「きゃっ」


 そばに妹が来ていることに気づかなかったミチエは、小さな叫び声をあげる。


「なによ、そんなに驚かなくたって…」

「だって…」

「それに、なによ。にやにやしながら大学生の寝顔を見つめちゃって。みっちゃんにそんな趣味あったっけ?」

「変なこと言わないでよ」

「だから、このひと何しに来たのよ?」

「海の幸をご馳走になりたいって、言ってたけど…」

「なんで、この人にご馳走する義理があるの?」

「文通でお世話になったし…それに昨日有楽町でご馳走になったし…」


 ミチエもそれ以上答えようがなかった。


「ふーん。なら、夕御飯食べたら帰るの?」

「だと思うけど…」


 その時この姉妹は、いやミチエの家族全員がそうであったが、泰滋がその後多摩川の親戚の家に帰ろうとせず、3泊もミチエの家にとどまることになろうとは考えもしていなかった。

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