第85話

「ところで先輩、本当にギターが上手いんですね」

「それほどでも…」

「何の曲だが知りませんが…」


 そう、ロドリーゴの小作品なんて、よっぽど好きじゃなければ知るわけがない。


「聞きながら、なんか…日差しの暖かい、田舎の畑にいる気分でした」


 汀怜奈は驚いて佑樹の横顔を見上げた。


『佑樹さんはホントに曲名を知らないで、おっしゃってるのかしら?』

「あら、佑ちゃん。今夜お肉は要らないの?」


 商店街のアーケード。店の前を通り過ぎる佑樹を呼び止める声があった。見ると精肉店の冷ケースの小窓から、人がよさそうなおばさんが笑顔で顔を出している。


「ごめんねおばちゃん。今夜は肉は必要ないんだ」

「そう…あら、今日は珍しくお連れさんがいるのね」

「ああ」

「綺麗な方ね。佑ちゃんのガールフレンドかしら」

「なっ、なに言ってんだよ、おばちゃん。失礼だよ。先輩は男性なんだから」


 慌てて言い返す佑樹。

汀怜奈は、他人から指摘されても、いまだに自分を女だと疑うこと知らない彼を、馬鹿なのか、純粋なのか、はかりかねた。


「こら、ユウキ。素通りはねえだろうが」


 魚屋の前では、いかついおじさんが佑樹を怒鳴り始めた。


「今日は、良いサンマがはいってるぞ。買ってけ」

「残念ながらコーチ、今夜はすき焼きでーす」

「ばかやろう、贅沢もいい加減にしろ」


 佑樹は笑顔で首をすくめると、早々に店の前から逃げ出す。


「あのおじさん、自分の少年野球時代のコーチなんです。別に怒ってるわけじゃないんですよ。ただ、普通に喋れないだけなんです…」


 佑樹が嬉しそうに汀怜奈の耳もとで囁いた。


 商店街の店を通るたびに、佑樹は声を掛けられた。そのひとつひとつに笑顔で答える佑樹。まるでこの商店街のすべての店が、親代わりとなって佑樹を育てたのがごとく、彼を可愛がっているようだった。


「あら、ゆうボウ。いらっしゃい」

「こんちは、おばちゃん。今日はすきやき用の野菜もらうよ」

「あら、今夜は豪勢ね…大切なお客さんでも来たの?」

「この先輩がとってもいい肉を持ってきてくれたんだ」


 八百屋のおばちゃんが汀怜奈をまじまじと見つめた。


「先輩って…、野球部の先輩じゃないでしょ。こんな綺麗な人が野球をやるとは思えないし…」


 詮索好きなおばちゃんの視線に耐えかねて汀怜奈は店の奥へ逃げ込んだ。

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