第83話

 佑樹の部屋に入った汀怜奈は、真っ先に橋本ギターに駆け寄った。


 今度は間違いなく手に取ることができた。高級材を使用しているわけでもなく、ことさら凝った装飾をしているわけでもない。何処にでもあるようなガットギターだ。さて抱えようとしたが、何度見ても、トップ板に後から張ったピックガードが我慢ならない。ギタリスタとして、そんなギターに対する冒涜が許せないのだ。ことギターやギター演奏に関することについては、エキセントリックなこだわりを見せる汀怜奈。それが天才ギタリスタたる所以なのだが、今回はこのままでこのギターを抱えるしかない。


 佑樹のベッドの上に腰掛け、格闘技の雑誌を積み上げて左足の踏み台にし、ギターを立て気味に右ひざの上に乗せる。慎重にチューニングをした。安価な弦で劣化が激しく、キーが安定しない。納得は出来ないまでも、これ以上チュ―ニングしてもよくならないレベルまで来ると、汀怜奈はギターをつま弾き始めた。ロドリーゴ氏の作品の中から、『小麦畑で』約5分の小作品である。


 弾きながら汀怜奈はあらゆる面をチェックした。抱き心地は?小ぶりで悪くない。音は?良い音でよく鳴っていると思う。共鳴を邪魔しているピックガードを除き、弦を新しいものに張り替えれば、もっと良い音が出るに違いない。しかしそれ以上のことはことさら発見できなかった。


 弾き終わって、橋本ギターを改めて眺めた。どこに『御魂声』などあるのだろうか。もしかしたら、演奏する時の気合いが足りなかったのか。汀怜奈は、静かに目を閉じて息を整える。自分がコンサートホールに居るイメージを作りあげ、そしてゆっくりと目を開けて演奏を開始した。

 汀怜奈はたちまちゾーンに入る。コンサートでの演奏の常ではあるが、汀怜奈はいつも指が勝手に動き出す感覚で演奏している。その感覚はすぐにやってきたが、やがて彼女は不思議な感覚に見舞われる。


 ギターの音が澄みきった汀怜奈の頭の中にしみ込んでくるのだが、その音はやがてある情景を、汀怜奈の頭の中に映し出し始めた。古ぼけた木造の倉庫。その前にある猫の額ほどのお庭。小さな女の子を膝に乗せた女性と作りかけのギターを持った男性が切り株のベンチに座っている。男性はどうやらうんちくを傾けながら、組立中のギターを説明しているようだ。得意そうに語る男性の話しに女性の膝の上の女の子は、とっくに飽きてしまい、庭に下りて雑草の花を摘んで遊び始めた。しかし、女性は相変わらずそのすずしい目元にとてつもない優しい笑みを浮かべて、辛抱強く男性の話しに耳を傾けていた。


 ああ、あの女性は目の前の男性を本当に愛しているのね…。汀怜奈はそう感じた。男性は時より、嬉しそうに女性のお腹をさすった。自分の話しをそのお腹にも聞かせているようだ。きっと彼とのふたり目の赤ちゃんが、お腹にいるのに違いない。やがてふたりは、誰かに呼ばれたのか、同じ方向に目を向ける。見ると、外から木土門をくぐって頑固そうな顔の老人が入ってきた。木土門…あれっ、この門はどこかで見たことがある。


 曲の終わりと同時に、汀怜奈の頭の中に映っていた映像も切れた。汀怜奈はしばらく呆然自失としながらギターを見つめていた。確かに他とは違う独特な感じはする…。

 しかし、やはり求めている『御魂声』なんて聞こえてこなかった。師匠の話しは、やはり単なる噂ばなしに過ぎなかったのだろうか。


 それにしても、このギター。なんて内向的な音を出すギターなんだろう。自分に響くばっかりで、音が外へ出ていかない気がする。これじゃ、コンサートホールの客席にいるオーディエンスに音楽が届かないだろう。仮に『御魂声』を発したとしても、その声が聴衆に届くとは思えない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る