第59話

 汀怜奈は、名も知らぬ河の水面を見ていた。


 河の流れはゆっくりだがとにかく川幅は広い。なぜかわからないが、向こう岸に行かなければならないと、理由の無い焦燥感にさいなまれながら、汀怜奈は河川敷に立っている。


「汀怜奈、何をしておるのじゃ」


 聞き覚えのあるかすれた声が背後からした。汀怜奈が振り返ると、そこにロドリーゴ氏が居た。スペイン人の彼が、日本語をしゃべっていることが、彼女はまったく気にならなかった。


「ロドリーゴ先生。向こう岸に探し物があるかもしれないと考えておりまして…」

「考えるまでもない、その足を進めて確かめればよいではないか?」

「ですが…」

「何を恐れておるのだ」

「河底は深いかもしれませんし、足を取られたら流されてしまいますし…」

「見えないものを恐れて、一生ここに留まるつもりか。まず一歩を踏み出し、川底の深さを身体で測れば良い」


 ロドリーゴ氏は、そう言って対岸を指示した。

 仕方なく、河の水に一歩踏み出す。思っていたより水は冷たかった。振り返ると、ロドリーゴ氏が笑顔で自分を見つめている。勇気を出してもう一歩。そしてもう一歩。歩んでいくうちに、水面が膝まで、そして腰まで上がってきた。


「先生、これ以上進むのは無理です」


 先生に訴えようと振り返ってみると、いつの間にかロドリーゴ氏の姿はない。


「あっ」


 河の底にある石に足を取られて、汀怜奈は水面に倒れ込む。するとなぜか、河全体の流れが激流に変化する。慌てて、もとの岸に戻ろうともがく汀怜奈ではあったが、もう激流の力にあがなう事が出来ず、身体ごと下流に流された。


 もう足が河底につかない。激流に揉まれて、溺れるのは時間の問題だ。水面を叩き、虚しくもがいているうちに、手にあるものが当たった。それを必死に手繰り寄せ、見ると流木である。汀怜奈は身体全体で必死にしがみついた。


 これにしがみついていけば、なんとか向こう岸にいけるかもしれない。そう思ってさらにきつくしがみつくと、汀怜奈の周りの風景が一転する。

 なぜか激流に流されていた自分が、小さな花が可憐に咲く野原に、流木と共に横たわっている。助かったのか…。汀怜奈の全身の力が抜けた。野花の心地よい香りと大地の柔らかさに包まれ、穏やかなな気分に浸っていると、一対の蝶々が舞い降りてきた。

 蝶々たちは、流木の小枝の先に留まる。見ると、小枝の先で羽根を休めているはずの蝶々たちが上下にゆっくりと揺れている。なんで…。不思議に思って腕の中にある流木を改めて確認した。あろうことか、その流木は息をしていたのだ。


 汀怜奈はここで目が覚めた。腕の中を見ると自分の胸に佑樹が顔を埋めて寝ている。自分の膝の間にパジャマ姿の佑樹の身体がある。自分の服はそのままだったが、佑樹を抱き枕がわりにして寝ている自分を発見して動転した。


「キャーッ」


 汀怜奈の叫び声で佑樹が目を覚ました。

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