第55話
一瞬だったので、チンピラ何が起きたのか解らなかった。目の前に居た佑樹でさえ、あまりにも素早い出来ごとに、正確に起きたことを説明できない。
華奢なサングラスの人物は、身体を捻ると電光石火のごときハイキックをチンピラの延髄に食らわした。か細い足腰から繰り出したキックであるから、チンピラが吹き飛ぶようなパワーは感じられなかったが、チンピラは瞬間神経を遮断され、崩れ落ちた。見事に急所に的中したのだ。
このハイキックはどこかで見たことがある。そうだっ、これは、この前のパリのK-1グランプリ、ハントをノックダウンさせたバンナのハイキックと同じだ。佑樹はとっさにそう思った。
「てめぇ…やりやがったな」
チンピラは、頭を振りながらも立ち上がる様子。山手線のバンナは、さらに身構えてキックの2発目を準備している。佑樹には、その姿勢が眩しいくらいに美しく感じた。このバンナ、とてつもなくカッコいいじゃねえか。しかし周りの乗客の驚く声に我に帰る。このままだと車内乱闘になってお互い警察行きだ。
「ごめんなさーい」
そう叫びながら、佑樹はバンナの腕を取り、タイミング良く開いたドアから外のホームに飛び出た。チンピラはふらつく足で追い掛けてこようとしたが、電車のドアは閉まりチンピラを乗せたまま走りだしたのだった。
走り去る電車を見送り、ホームでほっと一息つくと、佑樹はバンナに言った。
「先輩、助けていただきまして、ありがとうございました」
「えっ、先輩?」
見ると佑樹の目が憧れの色できらきら輝いている。
「先輩のキック…バンナのキックみたいでカッコ良かったです」
「バンナ?あなたも、パリのK-1グランプリをご覧になったの…」
「先輩もあの感動のリングを観たんですか?」
「もちろんです。しかもベルシー体育館で、生で…」
「うぎゃー、嘘でしょ。涙でそう。話聞かせてくださいよ」
「あの日は、パリの空も朝からどんより曇っていて、5月には珍しく蒸し暑く、何かとてつもないことが起きそうな日だったんです。会場内は、試合が始まるかなり前から異様な雰囲気に包まれていて…」
「ちっ、ちょっと待ってください、先輩。こんな貴重な話し、立ち話しじゃ聞けませんよ。駅出てカフェでも行きましょう」
「カフェ?」
「行きましょ、行きましょ」
佑樹は、初めて会ったのにもかかわらず、山手線で出会ったバンナの腕を取って歩きだした。バンナを女性だとわかっていれば、佑樹はこんな大胆なことできっこないのだが、この人物を、男の先輩と勘違いしているからこそ気安くそんなことができたのだろう。
実際、いかに野球漬けで女を知らない佑樹と言えども、普段なら華奢で端麗な体型のこの人物を女性だと疑うところだが、あのキックを見て、しかも生でK-1グランプリを観に行ったと聞いてしまったら、もう女だとは思えない。まこと先入観とは恐ろしい。
一方、バンナはなぜそんな厚かましい彼を拒否しなかったのか。理由は彼が持つギター以外の何者でもない。
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